52年間伝道に尽力した来日宣教師の足跡
〈評者〉山ノ下恭二
このたび、『タムソン書簡集』が出版され、来日した一人の宣教師が、この時代に日本でどのように教会を設立し、伝道したのかを知る有益な資料を与えられたことを感謝したいと思います。
この書簡集には、一四九の手紙が収められています。ヘボン、S・R・ブラウン、フルベッキ、バラなどの来日宣教師はよく知られていますが、タムソンの名前は余り知られていません。彼は一八六三年に来日し、最初の日本人プロテスタント教会となった日本基督横浜公会の創立に貢献し、一八七三年には東京築地に日本基督東京公会(現・新栄教会)を創立し、仮牧師に就任しています。その後、多くの人々に洗礼を施し、現在の池袋西教会、牛込払方町教会、本郷教会、日本橋教会、桐生教会の創立に関わり、小石川明星教会、高井戸教会の説教を担当しました。五二年にわたり日本の伝道のために尽力し、日本で逝去し、染井霊園に墓があるのです。
私がタムソンを知ったのは、牛込払方町教会創立一〇〇年記念誌の最初に彼の顔写真が掲載されていたからです。この百年誌には、牛込払方町教会の初代・四代牧師の小川義綏と二代牧師の奥野昌綱がタムソンから深い影響を受け、親しい関係をもっていたことが記されています。この書簡集にたびたび小川義綏と奥野昌綱が登場するのですが、二人とも宣教師の日本語通訳として、宣教師たちと共同して伝道をしているのです。
小川義綏については、この書簡集で次のように記されています。七四頁の注2を一部引用します。「一八六五年にタムソンの日本語教師となった。タムソンを通じてキリスト教に触れ信仰を得て受洗を申し出たが見送られ、その後、教義研究に励み一八六九年二月にタムソンから受洗。一八七二年三月一〇日、横浜公会の創立に参加し長老に選ばれ、翌年一月、タムソンと共に東京に移り、九月二〇日の東京公会(現新栄教会)創立に際し長老に選ばれた。常にタムソンを助け、一八七七年一〇月三日、日本基督一致教会の創立時には奥野昌綱および戸田忠厚と共に按手礼を受けた。浅草教会、牛込教会、のちに明星教会の牧師を務め、かたわら日本全国に巡回伝道を行い多くの教会の設立に貢献した。妻のきんも夫を助け伝道に生涯を捧げた」。牛込教会の創立が一八七七年一一月一七日ですから、小川義綏が牧師の按手礼を受けてすぐに、牛込教会の牧師として就任したのです。
タムソンの功績として挙げることができるのは、キリスト教禁教令を撤廃するために尽力したことです。この書簡集の「タムソン年譜」には、和歌山藩に招待され、そこに配流された浦上キリシタンの過酷な状況を聞き、横浜の英文誌に釈放を訴え、宣教師の連名で、アメリカ長老教会海外伝道局に、アメリカ政府から日本政府に禁教撤廃を要求するようにアッピールしたのです。これをきっかけに、禁教撤廃の動きが起こったのです。
東京周辺の各地にキリスト教会を設立し、生涯をかけて伝道のために尽力した宣教師の足跡を知るために、有益な書簡集です。
山ノ下恭二
やまのした・きょうじ=日本基督教団牛込払方町教会牧師