日米交渉史のひとコマ
〈評者〉本井康博
スチューアト・バートン・ニコルズ伝
アーモスト大学と同志社の交流
スチューアト・バートン・ニコルズ伝編纂委員会編
A5判・263頁・定価1650円・一般財団法人同志社日米文化財団出版局
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S・B・ニコルズ(一九〇〇~一九二五)は、同志社アーモスト館(登録有形文化財)の生みの親である。アーモスト大学を卒業した一九二二年、最初の学生代表として同志社大学に派遣され、YMCA寮を拠点に二年間、学生指導と日米交流に尽力し、皆から慕われた。
二年後に帰国し、ユニオン神学校に入学。しかし、宣教師として日本(同志社)に戻る夢はかなわず、在学中に肺結核に罹り二十五歳で没した。
息子の召天を悼んだ母親(マーサ・S・ニコルズ)は一九二八年に伝記を著した。さらに二万五千ドルを寄付し、息子を記念する同志社YMCA館の建設を申し出た。
アーモスト大学はこの件を同志社大学構内にアーモスト館を建てる計画にまで拡大させて募金し、総額六万五千ドルの寄付を集めた。建物は一九三二年に竣工し、同志社アーモスト館と命名された。ホールには新島襄の、そして玄関にはニコルズの記念タブレットが飾られた。除幕式は六月四日で、新島八重が前者の、そして旧友の中村貢が後者の除幕を担当した。八重はこの十日後に急死した。
学内での校葬後、アーモスト館寮生たちが八重の棺台を若王子山頂(同志社墓地)まで運び上げた。八重はニコルズを可愛がり、襄を「十九世紀の清教徒」、ニコルズを「二十世紀の清教徒」と称えた。二人の清教徒は奇しくも同じ高校と大学の卒業生でもある。
竣工した同志社アーモスト館は以後、外国人教員やアーモスト・フェローの宿泊、滞在だけでなく、日本人学生の寮(アーモスト寮)として大きな役割を担った。
入寮生のひとり、神学生の渡邊義治(一九一六~一九四四)はニコルズ伝や先輩からの情報によりニコルズの働き、人柄、志を知って感激し、伝記作成を思い立った。三年間の寮生活で書き上げた伝記は、渡邊が神学科を卒業した年(一九四一年)の十一月十五日に同志社アーモスト館から刊行された。
それより二十三日後の十二月八日、日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発。アーモスト館関係者に大きな衝撃を与えた。渡邊も応召して戦地に送られ、戦死する。
戦時下、軍部が敵性語(英語)入りの校舎名を禁じたので、アーモスト館は「新島記念館」と改称された。さらに軍部には敵国の資金で生まれた建物を接収し、海軍病院とする案もあった。一方のアーモスト大学は戦争中も学内のジョンソン・チャペルに掲げた「アーモストの輝かしい息子」・新島の肖像画を降ろそうとはしなかった。
戦争が終わるや、日米間の相互理解のために民間資金を許に同志社大学日米文化財団(現一般財団法人同志社日米文化財団)が発足。同団は今回、初代学生代表派遣百年記念に本書出版を企画した。編纂委員会には財団代表理事のアン・ケーリ氏ほか両大学ゆかりの六名が加わった。
本書は渡邊著ニコルズ伝の現代表記、マーサ著ニコルズ伝の日本語訳(後半の抄訳)、渡邊の略歴とアーモスト・同志社交流史の三部からなる。北垣宗治『新島襄とアーモスト大学』(山口書店、一九九三年)以来の労作である。
関係者の奉仕と働きを労いたい。
本井康博
もとい・やすひろ=元同志社大学神学部教授