虐待被害者に学ぶ
〈評者〉久保木聡
著者ダイアン・ラングバーグはアメリカ聖書協会のトラウマ顧問委員会の副委員長を務めた経験もあり、50年に渡り性的虐待の被害者に接してきた心理学者、カウンセラーである。著者の虐待被害者への関わりについて次のように述べている。「彼女の生徒となり、神に創造された心に傷を持つ人間・神の作品である多くの被害者から学びました。来訪者と膝を突き合わせて、「あなたの体験を私に教えてください」と尋ね学んだのです。」(13頁)本書に一貫して流れるのは、虐待被害者に学ぼうとするその姿勢である。ともすると、私たちは「援助の必要なかわいそうな人を教え導かなければならない」という視点で接してしまうかもしれない。そうなると、どれだけ虐待についての知識があっても、被害者と信頼関係を築くことは極めて難しくなる。
本書の全体像を要約しているのは、次の文章とも言える。
「現代のキリスト教界を見渡すと、教会が危うくなるとそのエネルギーをしばしば組織を守ることに向かう傾向があることが分かります。私たちは、イエス・キリストを愛し礼拝する以上に、組織や自分の教会を愛し礼拝しています。それで、共謀し、口封じをし、中傷し、脅迫します。」(266頁)
本書のサブタイトルは「権威とその乱用」とあるが、権威が正しく用いられる際は、イエス・キリストを愛し、礼拝することが最優先となる。しかし、イエス・キリストよりも組織や自分の教会を愛し礼拝しているならば、権威の乱用がおこなわれやすくなる。その際、虐待がおこなわれても、共謀し、口封じをし、中傷し、脅迫することによって隠ぺいへと進みやすい。それに対し、著者はこのように語る。「ビジョンが膨らみ、要求されることが多くなると、奉仕者はキリストではなく、仕事の要求に従順になります。(中略)品性より業績が大事になっているなら、優先順位を間違えています。」(213頁)と。つまり、教会内で虐待、パワハラ、セクハラが起こっても、黙っておいたほうが、宣教が進む、という発想でいるのなら、キリストよりも所属組織、自分の教会を愛しているにすぎず、キリストに似た品性を目指すより業績を大事にしていることになる。
本書は、教会にて、虐待、パワハラ、セクハラがおこなわれるなら、何よりもまず声をあげることを勧める。但し、虐待被害者のケアについても、加害者に対してどのように接するかも本書はほとんど語らないことには面食らった。それは(邦訳はないにせよ)著者がすでに性的虐待の被害者へのカウンセリングやトラウマへの対処について別著があるため、内容が重複するのを避けたのもあるだろう。
しかし、著者は大事な道しるべを提示している。「私が想像を超えた虐待・暴力の話を初めて聞いた時のように、私たちは互いに話を聞き、学び合わねばなりません。それはイエスの受肉にも似た働きです。それをしないと、私たちは主とそのからだのお役に立つことはできません。」(140頁)そうなのだ。「虐待」という決まった型があるわけではなく、人それぞれにいろんな虐待がある。そうであるなら、初めて出会う思いを見失うことなく、その虐待の現実に真摯に向き合い、ただキリストを仰ぎ、互いに学び合う姿勢をもって誠実に歩むしかない。そのように、主とその体である教会に仕えることができればと、強く思わされている。