新しいぶどう酒は、新しい革袋に!
〈評者〉瀬戸英治
オンライン教育の必要性
訳者である大倉一郎氏が本書を翻訳する動機には、訳者が牧師として所属する日本キリスト教団北海教区の事情があった。北海道の教会は広大な地域に散在し、農村部の教会は教会員が減少し、単独で牧師を招聘できない教会が増えている。そういう中で北海教区は、信徒が「宣教主事」という肩書で牧師の働きを担う制度をスタートした。そこで課題となったのは「宣教主事」の牧会者としての基礎的神学の教育をどうするか?ということであったと聞く。都市部に暮らす神学の素養のあるものが教えるにしても、遠く離れた地方の受講者と会うこともままならない。そこで大倉氏が注目したのがオンラインによる授業であった。それに加えて、献身の思いがあっても様々な理由で神学校に行くことのできない人が、全教科の試験を受ける「Cコース」にしても、神学の学びのサポートが必要だった。大倉氏はそこにオンラインでの必要性を考え、オンライン教育の研究書を求めた。
導入はしたものの
日本での本格的オンライン教育が始まったのは、新型コロナウイルスの爆発的な感染による。ちなみに米国より30年近く遅れた。この急激なオンライン授業の導入は、オンラインの特性を生かした授業の準備ができないままでのスタートだった。やがて感染が収まってくると「真意が伝わりづらい」「議論に加わりづらい」「神学教育には向かない」などのオンライン授業への批判が大きくなったのは不幸なことだ。
このようなオンラインへの批判について、著者のオギルビーもMOOCs(Massive Open Online Courses)における、授業を最後までやり遂げるものは登録者の4%にすぎないことをあげ、その理由を授業が動画による配信という一方的なものとなっているからだと指摘している。(MOOCsとは、だれでもオンラインを使用し無料で自由に大学の授業が受けることができるシステム。日本の大学も参画している。)
一方通行から双方向へ
オギルビーは、一方的な知識の移転だけの授業はオンラインにせよ、オフラインにせよ、有益とならないとする。これは受講する側の問題ではなく、単なる知識の移転に終始する教える側の問題である。授業をもっと想像的で未来志向のものにする努力が求められているという。そしてこのことは、グーテンベルクの印刷術の発明から、およそ600年間続いた知識集約型の教育を超えるものだという。
オンラインの枠を超えて
オギルビーは、オンライン教育にとどまらず、一方通行の知識の伝達ではなく、教えるものと学ぶものという立場を超えて、互いに影響し合い、互いに理解していく新たな学び方の可能性を見ている。このことは学生数の少ない日本の神学校では、必然的にそのような状況になっているが、オギルビーのいう教える側の創意工夫された授業というと、自分も含めてどこまでできているか?はなはだ疑問である。
キリスト教の衰退が言われる今日、あらゆる垣根を超えた創造的議論が必要なのは誰でもわかっているはずだ。その点において、オンラインにはいままでにない形の教育をする機会がある。新しいツールは、時として新しい世界を開くことを期待せずにはおられない。
瀬戸英治
せと・えいじ=農村伝道神学校特任教師