信仰の内容と聖書の読み方の一致
〈評者〉阿部仲麻呂
四世紀におけるナジアンゾスのグレゴリオスの聖霊論は、もはや他の神学者の追随を決してゆるさぬほどにキリスト教神学史上の画期的な独創性を帯びている。なぜならばグレゴリオスこそが歴史上最初に聖霊の神性(神としての本性、神らしさ)を明確に述べたからである。もちろんアタナシオスやディデュモスやバシレイオスもまた聖霊の重要性を指摘したのだが、聖霊が神であることを明言しなかった。しかし御父と御子イエス・キリストとともに聖霊を尊敬の対象として感謝と讃美を捧げる仕儀を明確に説明したのは、やはりナジアンゾスのグレゴリオスだった。それゆえ現在に至るまでのキリスト教信仰の最重要概念たる「三位一体論」を完成させた真の「神学者」の名は永遠に記憶されるだろう(歴史的にも四五一年のカルケドン公会議の際に「神学者」の称号を与えられた)。
このたび我が国初の単著としてナジアンゾスのグレゴリオスの聖霊論の本格的な研究書が世に送り出された。快挙である。著者・田中従子が本書で指摘するように、一九九〇年代以前におけるグレゴリオスの神学に対する研究は不遇の歴史の連続だったからである。特にナジアンゾスのグレゴリオスの友人である大バシレイオス(兄)やニュッサのグレゴリオス(弟)のテクストの解釈研究ばかりが増大するだけだった。その理由は、おそらくナジアンゾスのグレゴリオスが絶えず大バシレイオスに強要される形で教会共同体の指導的な責務を果たさざるをえなかったことや第一コンスタンティノポリス公会議の主導的な議長職を中途で放棄して隠遁生活に入ったことによって「消極的な人物」という誤解を招いたからなのかもしれない。しかし田中は一九九〇年代以降の研究史を手際よく整理して研究者相互の連関の意義を明らかとしつつ、「新たに照らされた光」という見出しでグレゴリオスの神学の復権を謳う。つまり田中はNorrisによるテクスト校訂の意義を紹介することから始めて、Beeleyによる三位一体論研究やHoferによるキリスト論的な研究を評価するとともに、さらにはMatzによる聖書解釈の視点からの研究による「清め」と「神化」の関係性の明確化の意義にも言及する。その上でアタナシオスとグレゴリオスとの正統信仰の堅持姿勢の連続性を解明した関川泰寛の業績を紹介するとともに、我が国で最初に発表されたナジアンゾスのグレゴリオスのテクスト解釈にまつわる阿部の二つの学術論文(一九九七年と二〇一〇年)の「救済論的実践的聖霊理解」という結論をも引用している。しかし田中はグレゴリオスの「第五神学講話」の内容に見られる「神による啓示」を説明する際に、①旧約時代に御父として自己を示した神の姿勢→②新約時代に御子および聖霊として連続的に自己を示した神の姿勢、という「二段階説」を提案する(阿部は①旧約時代の御父による啓示→②新約時代の御子による啓示→③教会の時代の聖霊による啓示、という「三段階説」を用いて解釈する)。田中によれば、教会共同体の誕生と発展を活写した使徒言行録における聖霊降臨の出来事を経験した弟子たちの歩みは新約時代に含まれるのだから、今の私たちもまた新約時代を生きており、教会共同体の時代が独立して設定されるわけではないとされる。たしかに聖書に記録された教会共同体の在り方を私たちも受け継いで生きるのであるから(私たちも信仰の円熟をもたらす聖書解釈を目指すことで、信仰の内容と聖書の読み方の一致を実現させる)、田中によるグレゴリオスの啓示理解に対する解釈は興味深く、新鮮であり、まさに聖書研究に力を尽くすプロテスタント神学の立場をも補強する。感心させられたが、評者は三段階説を棄てずに、今後、新たなナジアンゾスのグレゴリオス研究書を世に贈る決意を固め資料読解を再開した。他に東方神秘思想研究の大家である久松英二の研究を補足する見解も書かれている。なお田中は恩師の関川泰寛とともにSteadによる『古代キリスト教と哲学』(教文館、二〇一〇年)の翻訳にも取り組んだ(第12章でナジアンゾスのグレゴリオスが扱われた)。過去の先達への畏敬と愛情を動機とする田中の見事な研究の労作は読者を鼓舞する起爆剤である。感謝しつつ心より讃辞を贈る。
阿部仲麻呂
あべ・なかまろ=東京カトリック神学院教授