著者の誠実さが印象的な、牧師も信徒も「みんな」の道案内
〈評者〉野口幸生
本を読んでの第一印象は「誠実」です。著者自身の、誠実に主に向き合う信仰が本の全体に満ちています。
例えば「受け止めたいのは、わたしたちの存在のすべてが説教のために用いられることになるということです。わたしたちの畏れとおののきも、隠されたところでの涙も、心の深いところにある静かな喜びも、説教の奉仕において用いられます。大切なのは、説教の準備においても、説教を語る時にも、生きておられる主イエスの前に立ち、このお方に対して誠実であることです」。アーメンです。
本が、いわゆる説教作成論の前に「第1部 説教者とは」から始まるのも誠実です。誠実の英語訳の一つはfaithful ですが、説教者論を書くと、必然的に著者自身の目に見える信仰faithの姿勢が問われます。説教学の教授ですから、普段の姿勢が違っていたら、よう言うわと呆れられ終わり。だからこう言います。「わたしの言葉と共に、わたしの人格、わたしの存在そのものが説教します。(中略)信仰者としてのわたしのすべてがかかわることになります」「説教を聞くことは、第一には説教者と出会うことです(中略)説教者の信仰を受け取ります(中略)どれほど説教の言葉がつたなくても(中略)心には、個々の言葉よりも、御言葉を重んじ、御言葉を喜び、御言葉によって生かされている説教者の信仰が残るからです」「説教者との出会いが、次に説教者を生かしている御言葉との出会いをもたらします」「御言葉と出会うことを通して、最終的には、生きておられる主イエスとの出会いに至ります」。
畏れを覚えずにいられない。だからでしょう。この御言葉に向かう姿勢を「説教者の霊性」と呼ぶ章で「説教者は神の心をいただいて苦しみ、祈ります。苦しみのただ中で、御言葉を新しく受け取ります。苦しむ者への救いの言葉、悲しむ者への慰めの言葉、罪深い者への赦しの言葉を聞き取ります。そこから説教の言葉が生まれてきます」と、ルターの言う試練と祈りに、主の心をいただいて向き合いつつ、御言葉の黙想を語る「第2部 説教を準備し、語る」の全体を黙想論として丁寧に展開します。
第1部が実存的に具体的だとすれば、実際に黙想・釈義・原稿に取り掛かる第2部は、驚くほど実践的に具体的です。例えば「聖書はどこまでも奥深い書物であり、どれほどリベラルな問いを投げかけたところで、その力を失うことはありません」から、注解書の著者と「一緒に御言葉に聞きながら、信仰の対話をするのです」と「説明」より「対話」する姿勢を教えます。その対話が会話文体となり、例えばペトロは主の一番弟子ですと子供説教で説明するより《「だれかお使いに行ってくれるかな?」とイエスさまが見回すと、「(実際に手を高く上げながら)はいっ!はいっ!はいっ!ぼく!ぼくが行きます」今日も真っ先に手を上げたのはペトロさんです》と神様のドラマに引き込むほうが良いと。
連載時はCS教師向けだったため、ぜひCS教師会で、いや牧師会でも一緒に読んで欲しい本です。そして美しい門でのペトロのように、「私を見て」と黙想で受けた御言葉を手渡す生の姿を具体的に分かち合い、他の教師の手を取って、「さあ皆で」と福音を伝える美しい門を一緒に入っていって欲しいです。すべて主が用いて下さいますから。













