存在の根拠と、生の喜びを、聖書の信仰から紐解く
〈評者〉朴 大信
評者は学生時分、著者の月本昭男先生から有形無形の学恩に浴してきた者の一人である。思い出されるのは、しばしば脇道にそれて道草を食うような、余談の数々である。例えば、学生時代にすべき三つのこと(旅、読書、恋愛)。親になったら我が子への愛の手紙をしたためておくことの大切さ。事実と真実との相違に関するご自身の体験談……。どれもが人生を深く見据えるための示唆に富み、何より、師の情に溢れていた。
この度、著者にとって四冊目となる講演集が刊行された。本書の豊かな言葉に触れ続ける中で、あらためて確信した。あの道草は、余談だったのではない。著者の半世紀にも及ぶ旧約聖書学者・古代オリエント学者としての大変緻密で真摯な学問的基盤に裏打ちされた、まさに現代に還元されるべき果実であり、創造的な知恵だったのだと。
本書は、Ⅱ部から成る。第Ⅰ部「旧約聖書に学ぶ」(六講演)では、旧約聖書の特異な世界とその精神史的意義、またその裾野に広がる古代オリエントの考古学的知見や文化史的背景が、鮮やかに描き出される。他方、第Ⅱ部「信仰を語る」(五講演)では、著者自身の内に育まれてきたキリスト教信仰が、あたかも直に触れられるような体温と共に沁み渡っており、平易な語りと相まって、読者を信仰という世界、否、生の現実の奥深さに惹きつけてやまない。
言うまでもなく、この両部は相互浸透的で、縦横無尽に支え合っている。同じ様相は個々の講演においても結実し、聖書の理解と信仰の発露は、共に分かち難く切り結ばれる。
ところで、著者は「あとがき」でこう述べる。「そもそも旧約聖書を残したイスラエルの民は、古代オリエント文明世界の辺境に歴史を刻んだ弱小の一民族にすぎませんでした。……ところが、この弱小の民の間には、目に見えない唯一の神への信仰が育まれました」(一九五~一九六頁)。
「目に見えない唯一の神への信仰」。この信仰がもつ絶大なインパクト。それは個人史においては人生の重大な転機を、人類の宗教史にあっては大いなる逆説さえもたらす影響力である。大胆に言ってしまえば、本書は総じて、その書名に『見えない神を信ずる』が選ばれていることからして、まさにこの「信ずる」ということの秘めたる消息をめぐって、多層的に奏でられる協奏曲のようですらある。
この点で、「目に見えない神を信ずる信仰は、要するに、隣人愛、兄弟愛として可視化されてゆく」(一四四頁)との言葉は、本書の真骨頂に映る。同様に、「ヨブと友人たちとの間の友情の破綻は、ヨブ記の隠れた主題のひとつ」(九九頁)との鋭い洞察も、痛烈に響く。
冒頭でも触れたように、著者の眼差しは聖書の歴史性から倫理性、「福音の社会性」(一九一頁)へと開かれてゆく。それは安易なヒューマニズムや自前の信念などとは一線を画す。どこまでも聖書の信仰、とりわけ「創造信仰」を礎とする「贖罪信仰」の真相に尋ね求めながら、信じる主体と客体との激しいまでの人格的格闘、そして「存在の破れ」のただ中でなお生きることがゆるされた、生の喜びである。
「なんと信仰のない、よこしまな時代」(ルカ九・四一)に読まれるべき珠玉の一書たらんことを心から祈り、信ず。
朴大信
ぱく・てしん=日本基督教団松本東教会牧師