来日女性宣教師が内面を綴った貴重な資料
〈評者〉小檜山ルイ
本書は、一八七三(明治六)年に独身女性宣教師としてアメリカの長老派の婦人伝道局から日本に派遣され、五〇年以上日本で働いたメアリ・パーク(一八四一─一九二七、一八七四年、タムソン夫人となる)が残した日記のうち、一八七二年から一八七八年の部分を翻訳したものである。日記の原本はフィラデルフィアの長老派歴史協会が所蔵し、今回翻訳された部分は、同協会のホームページ上で活字化され、連載された部分に当たる。
本書は、新栄教会の創立一五〇周年の事業として実現した。同教会一四〇周年には、『タムソン書簡集』(教文館、二〇二二年)が翻訳出版されており、夫人の日記でこれを補うことで、注に詳しくあるように、新栄教会の黎明期の細部が判明する。新栄教会がこの日記の出版に情熱を持たれたことは十分理解できる。
そうした特別な関心を持たない読者にとって、タムソン夫人の日記の記述は、淡々とし、面白みが少ないかもしれない。その理由は、本日記が一九世紀の信仰者の「内省の記録」という性格を有しているためだと考えられる。
一七世紀のピューリタンにとって、日記は、内省の記録として重要な意味を持ったという。一九世紀前半に名声を不動のものとした女子教育機関、マウントホリヨーク・セミナリでは、この日々の内省の習慣を毎日の「セクション」(一五人から二五人の生徒からなるグループ)の集会で、規則違反を「自己申告」するという形で制度化していた。タムソン夫人が学んだオハイオ州のサヴァンナ・アカデミ女子部では、マウントホリヨーク出身の二人の教員が、マウントホリヨークのやり方で指導したという。彼女はその教育を通じ、日々の内省──自己の罪深さを認知する努力──を習慣とし、日記はそのためにあったのだろう。タムソン夫人が見ていたのは、自身の心の内だから、他者や社会に対する論評や活写があまりないのは当然なのだ。
明治のプロテスタント在日宣教師数は、女性が六〇%以上を占めた。女性宣教師の約半分は、宣教師の妻だった。近年、独身女性宣教師の研究は進んだが、宣教師の妻は相変わらず目立たない存在である。宣教師の妻は、そもそも宣教師か、といった疑問もあるだろう。
宣教師の妻は宣教師だったとここで断言しよう。そもそも、男性宣教師は、赴任直前に志を同じくする女性を見つけ、結婚し、二人揃って宣教師として按手されることが多かった。メアリのように独身女性宣教師として任地に赴き、そこで宣教師夫人となった場合は、なおさら、宣教師としての自覚は強かったろう。
任地における、彼女たちの仕事は、第一に、「ホーム」の手本を示すことだった。アメリカでは、「ホーム」は教会の次に大切なクリスチャン育成のための橋頭堡であった。「ホーム」の有り様を示すことは、重要な伝道事業の一つであり、カトリックとの違いを際立たせるものだった。
任地で「ホーム」を維持しながら、教会や学校を手伝うことは、忍耐を要する仕事である。夫や周囲の要求に合わせることが必要だし、伝道事業にとって必須の仕事をしているのに、表だって自己表現する機会はあまりない。
タムソン夫人の日記は、その我慢の日常が、内省による自己統制により如何に支えられたかを垣間見せてくれる、貴重な資料である。
小檜山ルイ
こひやま・るい=フェリス女学院大学学長