「ことば」は誰のものか
〈評者〉市原信太郎
本書でも何度となく使われている「キリスト教はことばの宗教」という句は、ある種の決まり文句としてしばしば聞かれる。しかし、それが示す内容は実に文脈的、多義的であり、その意味は常に問われ続ける必要があるだろう。
本書の「まえがき」は以下のように言う。「本質的に『ことばの宗教』であるキリスト教において、『神のことば』『神に関わることば』はどのように理解されてきたのでしょうか。それらの言葉は、どのような文脈でどう語られたり記されたりしてきたのでしょうか。また、そのような言葉は……、どのような役割を果たし、どのような影響を与えてきたのでしょうか。」これらの問いに、キリスト教神学、歴史学、社会学、宗教学、民俗学などをもって、学際的に応答したプロジェクトの報告が本書である。
しかし、小生が本書を通読して感じたことは、ここに言う「How」や「What」を超えるさらなる問いを、本書は投げかけているということである。それは「Who」、すなわち、誰が、誰に向かって、語っている「ことば」なのか、という問いである。この、ある種メタな視点からの問いが補助線的に全体を貫いていることにより、バラエティに富むアプローチゆえに、一見するとバラバラにすら見えるそれぞれの論文が合わさって、一本の「物語」を紡いでいるように思われる。
このような幅広い視点・論点に基づく本書の全体を、限られた字数内で網羅的に伝えることはできない。ここでは、「まえがき」の執筆者でもある打樋啓史氏の「言葉とサクラメント」を紹介することで、本書の「物語」を多少なりとも共有できればと思う。
打樋は、「言葉」と「サクラメント」とが対立項的に扱われ、それがカトリックとプロテスタントを隔てる点であるとする伝統的な理解が、近代の聖書学や教父学の復興、そしてエキュメニカル運動と礼拝刷新運動の進展により、両者の一体性という新しい理解へと移り変わってきたという視点に基づき、近年の研究をいくつか紹介している。興味深いのは、そこからさらにテゼ共同体の実践へと論を進めていくことである。
打樋氏は、この共同体に見られる言葉のサクラメント性に注目する。創設者ブラザー・ロジェは、プロテスタントの改革派の出身であるが、プロテスタント的な「言葉の偏重」には警戒的であり、行き過ぎた聖書主義や堅苦しい説教が支配的となることからは距離をとったことを打樋氏は重視する。そして、ロジェは言葉とサクラメントの不可分性を大切にし、この両者への信頼を通して神の深い愛の中に身を置くことができる、と確信していたと言う。そうして、テゼにとって、「神の言葉」はサクラメントと不可分の、人間存在の深みへの神の語りかけそのもの、「御言」にほかならず、それは論理的な言葉ではなく、何よりも典礼の言葉として表現されてきた、と結論づける。このような打樋氏の論じ方自体が、筆者の言う本書の大きな問い、「誰が、誰に語ることばか」への一つの応答になっている。
本書は「キリスト教はことばの宗教」という聞き慣れた言葉を、この根源的な問いへの応答として、改めて語っていると思う。
市原信太郎
いちはら・しんたろう=日本聖公会中部教区司祭