原文を正しく伝える古典的名著の初の全訳
〈評者〉川島堅二
キリスト教古典叢書 キリスト教信仰
F・シュライアマハー著
安酸敏眞訳
A5判・1112頁・定価16500円(税込)・教文館
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本書は、フリードリヒ・シュライアマハーの代表的著作『キリスト教信仰(信仰論)』の本邦初となる全訳である。シュライアマハーは信仰の本質を、初期の『宗教論』においては「宇宙の直観と感情」、後期の本書では「絶対依存の感情」と定義し、知にも行為にも還元されない宗教独自の内実を、神学用語を用いることなく示したことにより、キリスト教神学の枠を超えて広く哲学や宗教学に影響を及ぼした。また同時代の論敵でもあった哲学者シェリングやヘーゲルが、キリスト教神学から出発しながら教会的実践からは距離をおいて自らの思想を発展させたのに対し、シュライアマハーは終生、プロテスタント教会の指導者としての責任を担い続けた。本書の『福音主義教会の根本命題との関連によって叙述されたキリスト教信仰』という題名も、そうした彼の独特な立ち位置を示す。「絶対依存の感情」という一般用語で定義した信仰の内実を、古代・中世・近世のキリスト教教義との関連で弁証したのが本書だからである。
訳文は原書の「難渋な文体」に誠実に取り組んでいる。たとえばキリスト教的自己意識を独特な造語で分析する部分(序論)は、従来の翻訳では繊細なニュアンスを切り捨てた意訳がなされてきた。一例をあげると三枝義夫訳『信仰論序説』で「自己の非措定」と(おそらくは本書の訳者によって「イギリス英語訳」といわれている翻訳にしたがって)訳されている部分が、本書では「自己自身をそのように定立しなかったこと」(四〇頁)と、完了形の分詞で書かれている原文のニュアンスを正確に伝えている。
また原書の本文や脚注には、古典語(ギリシャ語やラテン語)原文で引用される多数の教理命題があり、本書の重要な内容を構成している。その中には、アタナシオス信条やニカイア・コンスタンチノポリス信条、ルターの『大教理問答』やカルヴァンの『キリスト教綱要』など著名なものもあるが、初見(少なくとも評者には)のものも数多くある。「イギリス英語訳」ではこれらを古典語のまま引き写しているが、本書ではすべて忠実に日本語訳されており、その労はいかばかりであったかとただただ脱帽である。
二〇世紀前半グスターフ・アウレン『勝利者キリスト』によって「主観型」というレッテルを貼られて以降、シュライアマハーの神学は、贖罪論としては現代神学の背景扱いである(近藤勝彦『贖罪論とその周辺』参照)。そうした今日、本書の中心概念であり、従来「救済」「救済者」と訳されてきた語(Erlösung, Erlöser)に「熟慮の上」「終始一貫して」「贖罪」「贖罪者」という訳語を充てた(九七頁)という訳者に強い気概を感じる。キリスト教への関心が、「学問」(知)と「社会実践」(行為)に分裂し、生き生きとした「キリスト教信仰」を伝えるべき教会が存在感を失っているように思われる現在、本書を熟読する意義は大きい。そのような道を開いてくださった訳者の多大な労に心より感謝したい。
川島堅二
かわしま・けんじ=東北学院大学教授