「修行」の同伴の書として
〈評者〉市原信太郎
神を追いこさない
キリスト教的ヴィパッサナー瞑想のすすめ
柳田敏洋著
四六判・300頁・定価2200円・教文館
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本書の著者柳田敏洋神父と小生とのご縁は、教区の教役者研修会の講師としてヴィパッサナー瞑想をご指導頂いたことがきっかけであった。それ以来、小生も自分の祈りの時間にこの瞑想をささやかながら続けており、本書を見たときには、繰り返し参照していた研修会のノートやプリントが本になった! という喜びをじた。このように、本書は著者の黙想指導の実践に基づいており、前半の講話編は実際の黙想講話を元にした書下ろしで、後半の実践編は八日間の瞑想指導のスケジュールに従って進んでいく。理論と実践という両方向からのアプローチが霊的指導の現場からなされているのは、本書のありがたい特徴である。
ヴィパッサナー瞑想とは、近年「気づき(マインドフルネス)の瞑想」として企業などでも取り入れられており、本書の言葉を借りれば「あるがままの今ここ」に気づいていくという瞑想であるが、もともと上座部仏教で伝えられていたこの瞑想を、価値判断をせずあるがままを愛する「アガペの心」から、キリスト教の視点で受けとめるという点で著者の立場は特徴的と言える。このような経緯もあって、著者はカトリック、またキリスト教の枠を超えた様々な対話に積極的で、聖公会に属する小生がこの原稿を書かせていただいているのもその現れかも知れない。
「はじめに」で著者が述べているように、本書が著者の霊的な探求と実践の経験に基づくものであることは、本書に単なる手引き書を超えた深みを与えている。また、イエズス会士である著者が、インドの修道院での生活の中でこの瞑想に出会ったことを始め、イグナチオの「霊操」や東洋の霊性との関係など、イエズス会の霊性の伝統の厚みも感じさせられる。その土台に立つ著者であればこそ、祈りの中に身体を十分に参入させないという限界がキリスト教霊性にはあり、だからこそ身体から祈りに入っていくヴィパッサナー瞑想の特徴を大切にすべきという、本書の問題提起に至ることができたのであろう。
分量的に全体の八割以上を占める講話編では、企業の研究者であったという著者の経歴も相まってか、図解も含めて大変論理的に議論が展開され、ある種の小気味よさすら感じる。しかしその一方で、本書は単なる分かりやすい理論書ではなく、実際に瞑想を行おうとする人のためのガイドブックでもある。著者が「思弁的になりすぎずに、つねに自分の瞑想体験によって確かめながら」というアプローチが大切と語るように、この瞑想の経験と、その経験の背後にある事柄の理解とが、同時に起きることが理想的なのだと思う。思えば、著者の実際の黙想指導の中では、講話と瞑想の「行ったり来たり」を通して、確かにそれを経験していた。やはり本書を手に取った人は、巻末に書かれているように、実際に指導を受ける機会をぜひ持って欲しい。
個人的には、「キリスト教にも修行が必要」という著者の言葉が印象に残っている。本書ではこれを自転車に乗る練習にも例えているが、読者の皆さんも本書に助けられながら、あるがままの自分を見つめる「修行」をうまずたゆまず続けていくことを通して、今ここで働いておられる「神を追いこさ」ず、神のアガペの場に招かれた者としての恵みを十全に味わって頂きたいと思う。
市原信太郎
いちはら・しんたろう=日本聖公会中部教区司祭