「カルトにならない聖書の読み方」!? にも使える愛の説教集
〈評者〉齋藤 篤
ヨベルの安田社長から、『本のひろば』への書評を依頼されたとき、真っ先に思い浮かんだのが「なぜ私に?」というものでした。そして評するのは、「焚き火牧師」と私が勝手に名付けている、大頭眞一氏の説教集シリーズの最新刊でした。
『焚き火を囲んで聴く神の物語・説教篇(7)神さまの宝もの 申命記・中』には、大頭氏が伝道牧会をされる京都のふたつの教会で取り次がれた、モーセ五書の連続説教が収録されています。説教だけではありません。校正者による解説、賛美の楽譜や歌詞、協力者たちの顔写真、しまいには前巻の書評まで掲載されているではありませんか。私のなかで「実に不思議な牧師」と映り続けていた大頭氏の気迫というものがじんじんと伝わってきます。
そして早速手に取って読んでみました。ああ、なるほど、そういうことか。なぜ私に書評依頼が来たかということがよく分かりました。本書はまさに、私が書評を書くにふさわしいかどうかは別として、レビューしたくなる一冊だったのです。
申命記というと、モーセ五書、つまり律法のなかで、もっとも「律法くさい書」だと私はとらえています。律法くさいとは具体的に、いわゆる「律法主義」に人々を引き込んで巻き込み、振り回すことができてしまうということです。「祝福か呪いか」などという究極な選択は、「救いか滅びか」「従順か不従順か」と言葉を変えながら、ついには人間が人間をゆがんだ支配の渦に巻き込んでしまうきらいすらある。律法主義とはそのような危険性を十分に含んでいると私は考えています。
私は「カルト宗教対策」をライフワークとしている者ですが、それは私の向こう側にある、社会悪をもたらす団体に向けての対策もさることながら、私たち自身がゆがんだ支配をもって他者を振り回すことのないよう、自戒を込めながら啓発することも大切な活動であると思っています。そういう意味で言えば、キリスト教の場合、いかに健全な聖書の読み方ができるかということが、とても重要なポイントになります。
大頭氏の申命記理解、おそらく聖書全体に対する理解は、呪いとか滅びとかそういうものではなく、「神の愛」がしっかりと基盤にある。それも神の愛を、さも自分自身が神になったかのように振舞うための材料にしない。人を掟で縛らない。むしろ愛の泉で包み込む神の姿を、繰り返し取り次ぎ続ける大頭氏による説教は、まさに「カルトにならない聖書の読み方」そのものであり、カルト対策本としても十分に用いることのできるものです。
私事ながら、勤務する日本基督教団東北教区センター・エマオで開講している「カルトにならない聖書の読み方」の教材として、是非大頭氏による説教集を用いたいと心から願わされた次第です。そして、その前に『焚き火を囲んで聴く神の物語』シリーズを買いそろえて読んでみたい。そんな欲求に駆られたのでした。
齋藤篤
さいとう・あつし=日本基督教団仙台宮城野教会牧師、同東北教区センター・エマオ主事