青年のことばに心を傾けること
〈評者〉小暮修也
「教会に青年が集わなくなったのではない。彼らは求めている。しかし、彼らの問題意識を受け止め、それに応え得る教会が多くないことである。」(三頁)
これは、本書の基となる「青年の夕べ」を若い友と企画した飯島 信牧師の言葉である。
振り返れば、今から五〇年ほど前、教会は青年があふれていた。敗戦後の価値観構築の中で、青年は聖書の言を問い、躓きつつ、その言と格闘した。自らの心を見つめ、他者との関係を模索しつつ議論をたたかわせた。教会も懐深く青年を受け入れ、育ててきた。けれども、しだいに「教会に自分たちの声を受けとめてくれる場所がない」という青年たちの嘆きが聞こえるようになった。このような中で、本書は、いのちの言葉を交わす場の必要性を示している。
本文から心に響く言葉を取り上げてみたい。
「ついに私は、こんなに苦しまなければならないなら、キリスト教も神も捨ててしまえ、と決心した。全てを捨てたそのとき、私は心の奥に、何か温かいものを、愛を持って私を見守る視線を感じた。神を捨てたときに、私は神に再び出会った。」(三九頁)
「毎日一緒に作業し、一緒に食卓を囲む。同じジョークで一緒に大笑いしたり、ふとした瞬間に相手のよいところや相手との共通点を発見したりする。そんな生活をする中で、ある点では立場の対立する相手のこともごく自然に人間として見ることができるようになった気がします。相手が『あちら側』ではなく、同じく神様によって造られ愛されている人間であるということ。……そんなことが実感できるのです。」(九四頁~九五頁)
「コロナ禍で、苦労、悲しみ、大変さ、自分の生きている時間の不都合、それに対する自分の生き方への反対を味わってきました。今も少しそれらは続いています。でも、そんな私だから、それらに打ち勝つことが出来ます。そんな私だから、世界は本当に面白くなります。そのことに誇りを持ちたいです。誇りを持って、自分の生きてきた時間を、過ごしてきたあり方を、ちゃんと自分の人生として携えていたいと思います。今も、この先も。」(一四二頁)
教会が青年への取り組みをするときに、最も大切なことを青年たちは伝えてくれる。
「『青年の夕べ』では、感話をする人も聴く人も真剣に、自分の心と向き合い、友(になろうとする人)に問いかけ、問いに真剣に応えようとしていたのではないでしょうか。そこには、心が、いのちが問うような、ことばを通した、また同じ時と場所で共有する空気を通した交流があったと私は感じました。」(一八一頁)、「青年の夕べは、聞いてもらえるという安心感がベースにあって、話すことができた場所。同様に、そのような場所だからこそ、聞く側として、心を開こうと祈れる場所でもあったように思います。」(一八二頁)
この「青年の夕べ」では「私は問われたとき以外は黙し、ひたすら青年のことばに心を傾けた」と飯島牧師は語る。
近年、コロナ禍で自らの生き方や他者との出会いに悩む青年も増えている。本書を参考にして、日本のキリスト教会が青年の心豊かな成長のために、一つでも多く、青年たちの声を聴く取り組みを始めてほしいと願っている。
小暮修也
こぐれ・しゅうや=明治学院前学院長