日常生活の試練の只中で御言葉を味わい祈り続けよう
〈評者〉井ノ川勝
昨年四月に逝去された加藤常昭先生が、遺言のように繰り返し語った言葉がある。植村正久の言葉である。説教は「基督自身を紹介し、其の恵を真正面より宣伝」することにある。「霊性の危機」(霊性の病) にあるひとりひとりの魂に、「慰安を与ふることである。主耶蘇の齎す平安と休息とを之に分け与ふるが伝道者の任務である」(加藤常昭著『日本の説教者たち』五一~五二頁、新教出版社、一九七二年)。説教は生けるキリストを真正面から紹介し、キリストの慰めに与らせることにある。
吉村和雄教師は加藤常昭主宰の「説教塾」の事務局長として、加藤先生の薫陶を受けたひとりである。本書の帯の言葉にこうある。「朝に夕に、食卓で、通勤中に、病床で。どこでも開けば、そこでイエスに会える」。本書の目的がここにある。本書は既刊の『聖書の祈り31』(大島力、川﨑公平著) の姉妹本である。「聖書」「黙想」「祈り」が三一日分として綴られている。その構成は、ルターが重んじた「祈り」「黙想」「試練」と対応している。信仰は日常生活の只中で、様々な試練に直面し、そこで聖書を通して主イエスの御声を聴き、御言葉を味わい、黙想し、祈ることにある。一日一章の新たな、しかし伝統的な手引きである。
本書は、福音書の主イエスの御生涯から、主イエスの言葉と出来事において、生ける主イエスとお会いし、生ける主イエスの御声を聴くことを願い、綴られたものである。
主イエスの御生涯を「ガリラヤで」と「十字架と復活へ」に分け、その分水嶺に「ペトロの信仰告白」がある。福音書の主題が「主イエスはどなたなのか」から「メシア、生ける神の子は何をするのか」へ転換すると捉え、黙想する。
著者は「はじめに」で語る。「聖書の箇所と短いメッセージに続いて、祈りが載せられています。それは主イエスの言葉を聞き、出来事を見た人が、分のすなおな思いを言葉にしたらこうなるだろうと考えて書いたものです。どうぞそれらを、ご自分の祈りとして祈ってみてください。それも、あなたが主イエスに出会う助けになると思います」。
私たちの信仰生活は、主イエスの御足の跡を踏み従うことにある(一ペトロ2・21)。それはペトロが語るこの言葉と響き合う。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(一ペトロ1・8)。甦られた主キリストとお会いし、「私に従いなさい」との生きた御声を日々新たに聴くことにある。
「主に従う力」と題された三〇日の黙想(ヨハネ二一・一七~一九) を紹介する。「主はそのようなペトロに、『私を愛しているか』とお尋ねになりました。ペトロは、胸を張って『はい、愛しております』とは言えずに、ただ、あなたは知っていてくださる、としか言えませんでした。そのペトロに、主は三度、同じ問いをなさり、ペトロに三度、同じ答えを答えさせられました。……愛するとは、信じて希望を捨てないことです。ですからペトロは、主イエスを信じて、希望を捨てません、と答えたのです。でも、本当に愛したのは、本当に信じて、希望を捨てないでいてくださったのは、ペトロではなく、主イエスです。ペトロの愛は、この主イエスの愛に応えるものに過ぎません」。