愛と祈りの贈り物
〈評者〉露の団姫
「お寺なのに、キリスト教の本が置いてあるんですか!?」─今日もお寺に来た人が、図書コーナーを見て驚きます。でも、ひとたびページをめくれば、誰もが納得をするでしょう。なぜならそれは、宗教の垣根を超えた「生きる力」を与えてくれる言葉だからです。いつも愛に溢れる片柳神父の著書には「信者になって欲しい」といった〝こちら側の事情〟ではなく、ただただ「あなたが幸せになりますように」という祈りが綴られています。
心待ちにしていた新刊『日々を生きる力』も、まさに種まきのような一冊でした。日付とともに聖書のみ言葉が紹介され、そのひとつひとつに片柳神父のわかりやすいメッセージが添えられています。
なかでも目を引くのが「退く時間」(4月29日)です。
ルカ5章15節のみ言葉とともに、「奉仕するのはよいことですが、それだけでは疲れ果て、心がすり減ってしまいます。ときには退き、心を癒すための時間をとりましょう」とあります。私はこの箇所を選択した片柳神父の愛に、また心を打たれました。
というのも、仏教においても奉仕の精神である「利他行」が説かれ、多くの人がその実践に励んでいますが、この教えが説かれる多くの場面で抜け落ちている大切なことがあります。それが、「まずは自分自身を整える」ことです。
奉仕の行いは、自分の生活や心が整っていなければできないことです。ところが世間では、その自分という基盤を整える大切さを抜きにして「他人様のために」が語られてしまうため、素直で正直な人たちほど、自分のことすらままならないのに「他人様のために」「世の中のために」と動き回り、心や体をすり減らしてしまいます。
これは仏教徒に限らず、奉仕の精神を大切にするキリスト教徒においても起こりがちなことです。だからこそ、「ときには退き、自分を癒す」ことも、信仰を生きる上で欠かすことのできない教えなのかもしれません。
また本書では、「おわりに」においても、み言葉のひとつひとつを「あなたのために準備され、あなたが頁を開くのをずっと待っていた言葉たち」と念押ししています。まずは、「あなた」なのです。
私の夫はクリスチャンですが、日々の結婚生活の中で、夫の背後に神様の存在を感じずにはいられません。私は僧侶でありながら、夫を通じて「神様はおられる」ということを知っています。
ところが、片柳神父が「光の方へ」(3月4日)で語りかけるように、世の中には、光よりも闇の方を好み、超越した存在に気付こうとしない人たちも沢山います。人間は全知全能だと思い上がった人々は、慢心し、そして苦しみます。その苦しみの中にあっても、神などいないと信じて疑わず、その愛という贈り物を受け取ろうとしません。
しかし、そのような世の中でも、片柳神父は人々を責めません。神様からのみ言葉にリボンを結び、それが贈り物であること、そして誰もが受け取れるものであることを知らせ、受け取りやすくし、すでに受け取っていることを伝えます。
これこそが、片柳神父が神様から与えられた「大いなる賜物」なのでしょう。
露の団姫
つゆの・まるこ=落語家・天台宗道心寺住職師