ハーマンとの出会いの道案内
〈評者〉宮谷尚実
「私は自分の心が脈打つのを感じた。心の深みで一つの声が呻き、嘆くのを聞いた。あたかも殺された兄弟の血の叫びのように。もしも私がその声に聴かず耳を閉ざし続けるなら、その血に報いんとするかの如くに。[…]私はもはや神に隠しおおせなかった。自分が〔カインの如き〕兄弟殺し、神の独り子を手にかけた兄弟殺しであることを」(NⅡ41、本書四五頁)。
異国での失意と孤独と困窮の果てに手に取った聖書を読み進めていた二十七歳の青年に、回心の瞬間がやってきた。この「自己認識の地獄堕ち」のただなかで、人間の「愚かさ」まで自らを低くする神の深い愛とキリストの十字架による救いを実感し、「神の独一的な働き」による全存在の変革をもたらされたヨハン・ゲオルク・ハーマンは、近代ヨーロッパの啓蒙主義を内側から批判する文筆活動を開始する。その主たる活動の場は東プロイセンのケーニヒスベルク、この町にはイマヌエル・カントもいる。ハーマンは、かねてから交友関係にあったカントに『純粋理性批判』の出版元を紹介した一方で、書評や著作『理性の純粋主義へのメタ批判』によって痛烈な批判を浴びせた。
ハーマンの著作は対峙する相手自身の言葉を身にまといつつ、引用、譬え、暗示、ユーモアやイロニーを駆使した挑発的な文体を特徴とするため、当時から難解とされてきた。日本でハーマンの異名MagusinNordenがながらく「北方の魔術師」と誤訳されていたのもその著作が表面的な読解を拒むゆえだろう。二〇〇二年、本書の著者である川中子義勝氏が『北方の博士・ハーマン著作選』(沖積舎)により、カント批判を含むハーマンの代表作を翻訳と解説で日本の読者に届けたことは画期的な出来事だった。
本書『ハーマンにおける言葉と身体─聖書・自然・歴史』は、川中子氏によるハーマン研究の集大成であり、ヘーゲル、キルケゴール、ベンヤミンなど、後世までインスピレーションを与え続けたハーマンに接近するために恰好の案内書である。第一章でハーマンの生涯と思想の全体像が提示され、第二章から第六章では「言葉」「身体」「自然」「歴史」を鍵概念として、聖書解釈にもとづくハーマン独自のキリスト教思想が同時代の啓蒙主義者との対峙から読み解かれていく。その際、第一章で示されていた主題が変奏曲のごとく繰り返し現れる。「十字架の愛言者(Philologus crucis)」ハーマンが〈対話〉の相手や状況に応じて「啓蒙の克服すべき闇」(本書一六五頁)を示すその指の動きを読者がつぶさに追うことを可能にする仕掛けといえよう。
本書の魅力は、ハーマンとの時空を超えた実存的で人格的な「真の出会い」(本書二一六頁)が描かれた後半にある。著作を通してハーマンと出会ったキルケゴール(第七章「『実存』の系譜」)、最晩年のハーマンと「エキュメニカル」な出会いを得たガリツィン侯爵夫人(第八章「ハーマンとミュンスター・クライス」)、そしてなによりもユニークなのは、著者自身の共感と実感をもってハーマンと「信の類比」(本書二四四頁)で結びつけられた内村鑑三(第九章「聖書と天然と歴史」)だ。これらの章から読み始め、適宜前半に立ち戻る読み方も良いだろう。
ハーマンの聖書論や信仰に関する思想を中心とした本書ならではの工夫は巻末の聖句索引にある。第二章で聖書とハーマンとの関わりが詳述されてはいるが、回心に至るまでの自伝的文章『我が生涯を憶う』や聖書読解の記録『一キリスト者の聖書考察』(いずれも一七五八年)については、いまだ日本語訳が待たれる状態である。川中子氏には今後ともハーマンとの深い出会いへの道案内をお願いしたい。
宮谷尚実
みやたに・なおみ=国立音楽大学音楽学部教授