聖書を読み慣れた人にもこれから読もうとする人にも
〈評者〉石丸昌彦
『はじめてのマルコ福音書』の著者が、ヨハネ福音書に取り組みました。前著と同様、福音書全体を、聖書の小見出しごとに、丁寧にわかりやすく説き明かしていきます。
本書を書いた理由がまえがきに記されています。
「ヨハネによる福音書は他の福音書と比べても、特に『イエスをキリストと信じるというのはどういうことなのか』をはっきり伝えているように思うのです。」
さらに、こうも書かれています。
「書き出しからして、この書は他と違っています。マタイとルカにはみなさんご存じのクリスマス物語があります。(これに対してヨハネによる福音書では)クリスマスの出来事よりもさらにさかのぼって、イエスさまの存在が捉えられています。イエスさまを『神さまによってこの世に遣わされた存在』として見ているのです。」
ああ、そうだった、と天を仰ぐ気持ちになりました。
ヨハネによる福音書には、この福音書だけが伝える印象的な場面が数多くあります。カナの婚宴の奇跡、サマリアの女との謎かけのような問答、ラザロの復活、トマスと復活の主との出会いなど、きりがないほどです。
いずれも聖書の読者にはよく知られた場面ですが、各々のインパクトが強いだけに、ともすればバラバラに記憶され、つながりを見失うことも起きがちでしょう。しかし本当はそれらのつながりこそ大事なのであり、つながりを見失ったら聖書の本質をも見失ってしまいます。
つながりを生み出すのは「イエスはキリストである」という単純で力強い究極のメッセージです。この根本をいつもしっかり心にとめておくこと、それは聖書を読み慣れた人々が折りに触れて立ち返るべき原点であり、これから聖書を読もうとする人々が迷路に入り込まないための何よりの指針であることを、本書は繰り返し教えています。
本書の著者は若い頃から90歳を超える現在まで、長年にわたって教会学校で子どもたちに語り続けてきました。その話が実に巧みであることを、周囲の人々はよく知っています。「話が巧み」などという言い方は、かえって失礼かもしれません。話題の選択、話の運び、よく通る声と明晰な発音など、話し手に求められる条件を全て備えていたのは事実ですが、何より著者の語りは「イエスが主であることを証しする」という目的にぴたりと照準を合わせ、けっしてそこから逸れることがありませんでした。著者自身が、イエスを主と仰ぐ生活を日々心がけてきた証拠でしょう。
教会学校教師の後輩として、著者の話を毎週聞き続けてきた幸運な私には、本書の行間から張りのある著者の声が響いてくるような気がします。とりわけこのくだりです。
「お願いしたいのは、この本をお読みになって、聖書を読んだということにしないでいただきたいということです。この本は手引きのようなものです。ぜひ本物の聖書をお読みになり、そこから神の声をあなたご自身で聴き取っていただきたいのです。」(まえがきより)
この一言に著者の祈りと願いが集約されています。聖書の隣に本書を置き、時々ページをめくってみてください。
「ああ、そうだった」という新鮮な気づきが、ヨハネによる福音書の真価を確かめさせてくれるに違いありません。