雅歌を信仰生活と結びつける
〈評者〉小友 聡
「『雅歌』の説教集出版!」これを聞けば、きっと驚きの声が上がるでしょう。雅歌は、現在の教会ではほとんど説教されない書です。この雅歌という書の全体を丁寧に、四六回にわたって説教した説教集が本書です。著者は日本キリスト教会小平教会牧師の住谷翠先生。雅歌と言えば、古代教父オリゲネスの雅歌講話が思い出されますが、住谷先生は現代のオリゲネスの如く、みずみずしい言葉で雅歌を解き明かしています。快挙と言うべき出版です。
雅歌が教会で語られなくなってしまったのには理由があります。それは、雅歌は旧約聖書正典に含まれているにもかかわらず、内容は男女の恋愛詩であり、しかも神の名が一度も出てこない書だからです。どう見てもイスラエル固有の宗教文書ではなく、周辺の古代オリエント世界、特にエジプトの恋愛詩歌に起源があるのではないか。多くの聖書学者はそう推測し、雅歌は宗教性を欠いた世俗的な恋愛歌集として字義的にのみ解説されるのです。しかしこの書は、かつては聖なる文書、キリストと教会の関係を物語る書として伝統的に解釈されました。残念ながら、その解釈は教会の恣意的な解釈とみなされ、もはや時代遅れになり、雅歌は聖性を失いました。
現代において雅歌は教会の講壇で語られることはなくなり、雅歌で説教をしたことがないという牧師がほとんどでしょう。けれども、雅歌も聖書正典に含まれるのです。住谷先生はあえて教会のタブーに挑みました。見事な挑戦です。教会で雅歌を語り、雅歌で説教することが現代において可能だというお手本を示してくれました。
住谷先生の雅歌解釈の方法は二段階です。まず、雅歌を「恋の歌」として読み、字義通りにテキストをなぞって説明するのです。その上で、雅歌を霊的に「信仰の歌」として解釈します。霊的というのは、キリストと教会という関係において、あるいは雅歌の言葉が響き合う旧約聖書や新約聖書の言葉に引き寄せて、説明するということです。聞き手は教会の会衆ですから、信仰生活に寄せた解き明かしが随所に見られます。この二段階の解釈による読み解きはとても自然で、違和感がありません。住谷先生の感性もあふれ出て、味わい深く雅歌の御言葉を聞くことができます。
たとえば、七章一─二節に「マハナイム」の舞いを踊るシュラムのおとめの詩があり、おとめの「ふっくらしたもも」が称えられます。住谷先生は、第一段階で「恋の歌」として、この踊りが優雅であって、しかも、その踊りには激しさがあると説明します。第二段階では「信仰の歌」として、このテキストが創世記三二章三節のマハナイム(二組の陣営)に引き寄せて読み解かれます。さらにヤコブが神と格闘し、「腿」の関節をはずされた姿に雅歌が重ねられます。ここに「信仰者の腿」という実にイメージ豊かな主題が浮かび上がるのです。神との格闘は神と踊る信仰者の信仰生活。そこにこそ幸いがあると住谷先生は結論します。見事な解き明かしです。雅歌がこんな風に私たちの信仰生活と結びつき、雅歌の言葉が私たちの心に響いてきます。信徒の皆さんのみならず、牧師の皆さんにも是非お読みいただきたい説教集です。
小友聡
おとも・さとし= 日本旧約学会会長