法学者である長老の証の書
〈評者〉澤正幸
著者がこの書を記した意図は、はしがきとあとがきに記されている。戦後まもなく受洗し、奉職した大学のある金沢の教会で、若くして長老に任じられ、爾来62年余りを「福音主義改革教会の伝統に立つ教会の長老」として仕え、歩んできた一人の法学徒である真摯な信仰者として、福音主義教会にとって教会法とは何かという問題に取り組んだのがこの書である。
著者が本書の執筆目的を記す際、聖句を引用しているところに本書の性格が如実に示されていると思った。すなわち、本書は単なる法理論を論じようとするものではなく、著者が礼拝において語られる御言葉に聴従し、長老として誠実に主と教会に仕えてきた信仰の生涯の証なのである。
「主の教会は、いずこにあっても同じ信仰と秩序によって立ち続け、私たちを支える恵みと力に満たされているのです。そう信じ、それを明らかにし、またそれを支える一助にしたいと願いつつ、本書を書き進めました」(あとがき)。
この証は今日の日本の福音主義教会すべてに向けられた、聞き流すことのできないメッセージだと思う。本来「長老制度」は歴史的なものであり、著者にとっても明治期に旧日本基督教会に連なる教会として発足した金沢教会の歴史と伝統が「福音主義教会法と長老制度」を考えるときの基礎となっている。
今日、旧日本基督教会の「改革長老教会」としての伝統を受け継ぐグループは複数の教派にまたがって、分かれて存在している。その中で、著者は日本基督教団において、著者自身その渦中に身を置いた1969年以来の教団紛争、さらに今日の未受洗者への配餐問題に至る教会の秩序の崩壊の危機に直面するなかで、信仰の良心にかけて、誠実に、教会の秩序とは何か、その基礎、本質について主張し、弁明を重ねるために記述してきた。それが本書のすべてである。それを著者は、狭い一つの教派だけのこととしてではなく、キリストの教会としての「公同性」に向けて開かれた、すべての教会を主の教会として整え、建て上げるための秩序の問題として示そうとしている。「このようにして、世界の改革長老教会は、その使命のために、歴史的諸条件の中で、上記の組織原理の具体的に妥当な実現に努めてきたのであり、日本の改革長老教会の群れも、日本基督教団においてという歴史的条件の中で、あるいは同教団以外にそれぞれの教派教会の歩みにおいて、その実現・形成をどのように図って頭なる主に仕えるかにつき、御言葉の力を信じて知恵と忍耐と祈りを尽くして励むべきことを求められているのでありましょう」(第二部「改革長老教会の伝統と教会法」92頁)。ここに著者の「改革長老教会」としての伝統を受け継ぐ諸教派への呼びかけを聞く。
「福音主義教会法と長老制度」の本質を言い表すために著者は一つの喩えを用いている。
「紙の上に砂鉄を撒くといろいろの方向を向いてバラバラであるが、その紙の下に磁石を置くと、砂鉄は磁石につながり、また相互に結びつき、いずれも磁石の方を向いて、磁石を中心にきれいな秩序を保って拡がる」。キリストが磁石、磁力は聖霊、見えない教会が磁場にたとえられている。砂鉄が一様の方向を向く姿に、著者は教会の秩序を見ている。信仰告白、礼拝指針、教会組織法の三つが相互に支え合う、教会の秩序の巧みな喩えである(206頁)。
最後に筆者も著者に倣って本書をたとえるために主イエスが語られた一つの喩えをひきたいと思う。「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(マタイ13・52)。
本書は「福音主義教会法と長老制度」について、おおよそキリストの教会における秩序について、それが何であるか、また何でないか、正しい理解と誤解について、そこから学ぶべきことを取り出す倉のようなものであると。特に第一部「福音主義教会法の考え方」第1章「教会の信仰と秩序」に記された「教会法に対する誤解の根底に、教会法を近代市民法的思考の枠の中だけで捉えている」ことがあるとの指摘をはじめとして、読者は教会法について明快な理解を得られるだろう。本書の出版を心から著者に感謝したい。
澤正幸
さわ・まさゆき=日本キリスト教会福岡城南教会牧師