原典を読んでこそ得られるもの
〈評者〉木村あすか

デシデリウス・エラスムス『自由意志について、評論あるいは比較検討』×マルティン・ルター『奴隷的意志について』
エラスムス×ルター著
竹原創一訳・解題
A5判・460頁・定価9680円・一麦出版社
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コップの中に水が半分入っている状態を見て「半分しかない」と思うか「半分もある」と思うかで楽観性をはかる心理テストがある。今から五百年前のヨーロッパで「救済において自由意志がどのような役割を果たしているのか」「自由意志はあるのか、ないのか」という論争が行われた。ローマ教皇庁の立場を代表するエラスムスと、後の教会分裂につながる独自の立場を確立しつつあったルターの著作による議論である。「自由意志」と「奴隷意志」と聞くと、自由な方が良いと思われるかもしれない。日常的には「人間が自分の選択や行動を自律的に決定できる能力」を指すことが多いが、本論争で問題となるのは「神から与えられた善悪を選ぶ力」である。本書解題四三七頁では「両者共人間の意志は本性上自由(自己決定)であることを承認しているが、〈永遠の救い〉という神的事柄の選択においても、人間の意志が自由に働くかが争われている」「それゆえ人間の意志が〈奴隷的〉であるというのは、人間の意識の問題ではなく、神との関係の問題である」と解説される。四四〇頁の「ここでルターにおいて〈奴隷〉は、悪い意味でなく、むしろ神の〈王的自由〉を分け持つ〈仕える者〉という、よい意味で言われる」も重要である。
二人は聖書の明瞭性、自由意志の定義、論争方法としての「主張」、神と人間の「協働」「功績応報論」の可否について、聖書に基づいて議論した。現代でもこの論争に関する研究は続いており、どちらかを正解とするのではなく、両者の主張のそれぞれに学ぶことができる。
古典期と異なる「初期近世ラテン語」で書かれた原著を日本語に訳した本書は、自由意志論争五〇〇周年記念刊行物として大きな意義を持つ。訳注を見れば分かるように、先行する山内宣氏の訳業に大きな敬意を払いながら、訳の欠落した部分等を補った完訳版である。ラテン語原文で読みたい場合も、底本の頁番号が付されているので該当部分を探しやすい。
訳者は立教大学などで教会史の講義、宗教改革に関するゼミ、ラテン語の演習などを担当された。著書として『ルターの詩編』(知泉書館)、訳書としてH・J・イーヴァントの『ルターの信仰論』(日本キリスト教団出版局)とルターの『第2回詩編講義』(リトン)がある。本書のような大部の翻訳を成し遂げられるまでに、どれほどの準備、研究、研鑽、検討、逡巡と決断が必要であったかと思う。これは日本語読者への良き贈物である。
四五五頁に及ぶ本書を通読するには、相応の時間と労力を要する。現代の書籍とは異なり章や目次がないため、慣れるまでは多少戸惑うかもしれない。巻末に「エラスムスとルターの自由意志論争における一致と相違」と人名・事項・地名索引があり、助けとなる。何らかの機会に、引用聖書索引が加えられれば大変ありがたく思う。また本文は、目に優しく読みやすい大きさの活字である。
自由意志論争についてチャットGPTに聞けば、答えはすぐに出てくるだろう。教会史の本にも要点が書かれている。しかし原典を読んでこそ得られる刺激や学びがある。ルターの繰り返しに、先程も書いてあったと思うかもしれない。激しい言葉遣いや人間の罪深さに対する、底の底までをえぐるような洞察に圧倒される。エラスムスが描いた、無力な幼子が父親の助けを借りながら歩み、ついにりんごを手にする様子は忘れがたい。しかし彼の争いを避ける姿勢は、一種の逃げに見えもする。彼らの議論は、それぞれの枠組みにおいて一貫性を持つが、突っ込みを入れる余地は大いにあり、合わせ鏡のように一緒に読むことでその深みをより良く味わえる。
人間に対して悲観的になっているとき、罪に打ちひしがれているときは、ルターに軍配を上げたくなる。何かに挑戦し成し遂げたとき、教育に携わる際には、エラスムスに心を惹かれるだろう。人間は常に揺れ動く有限な存在である。本書を読み込むと、読者はこの論争について知るだけでなく、必然的に自らの神観、人間観、信仰や経験、心理状態などを顧みることになるだろう。研究者だけでなく、自由意志について考えたい方々に特に勧めたい一冊である。












