雷に打たれたように、その本と出会い人生が変わった、そこまでの本は思い当たらない。もし、あえて「出会い」といえる本があるとすれば、「世界の名著」『キルケゴール』(中央公論社)を挙げることになろう。当時、同叢書の新装版が刊行されつつあった。高校一年生の夏休みを過ごす自分は、なぜか本書を手に取った。「一九七九年八月購入」との記入がある。
手元の黄ばんだ本書から分かるのは「四年も」たってから、入念に線を引いて書き込みをしながら読み込んだ様子である。当時、後に生涯の師となる小川圭治先生の『死に至る病』の講読に出席していた。私の関心はその頃、キルケゴールにはなかったが、この講読に出席し始めたことを機に、古い本棚から手に取ったのだろう。しかし、なぜそれほど入念に読むに至ったのか。内表紙に自分で書きつけた「生きているということには不安があるんだ」との言葉がその当時を物語っている。
大学二年生の私は、年齢なりの蹉跌を経験していた。「…不安がある…」との言葉は、桝田啓三郎先生が内田百閒から聴いた言葉として「解説」にある。ただ『不安の概念』は難解すぎたのか、それほど丁寧に読んだ形跡は見当たらない。最も熱心に読んだことが明らかなのは『哲学的断片』であった。不安とは何か、よく分からなかったが、そこからの救いは垣間見えたのであろう。真の教師とは、本文の言葉通りでないが、「真理を理解しない者に真理を理解する条件をも与える者」であり、「神ご自身」であるという趣旨の文章に線が引かれている。いつしか私は、真剣にキルケゴールに取り組むようになっていた。
本書との出会いから、キルケゴール研究を志し、小川圭治先生の下で学び、コペンハーゲンにも留学した、そして…。雷に打たれたようにではなかった。けれども、じわじわと自分の人生は向きを変えた。そんな本との出会い方もあるのである。
(ひらばやし・たかひろ=関西学院大学教員)