わたしがキリスト教に関心を持ったのは、50年も前になるが、1970年代の高校生の頃だった。書店で遠藤周作の「ぐうたら人間学」(1974年)を買い求め、ユーモアと人間味ある内容に、次々とそのシリーズを読んで楽しんでいた。
やがてカトリック作家だと知り、キリシタン迫害やイスラエル巡礼を題材とした「沈黙」(1966年)「死海のほとり」(1973年)を読み、次第に遠藤周作が描く「イエス」像に興味を覚えた。とくに「イエスの生涯」(1973年)と「キリストの誕生」(1978年)は当時の聖書学を踏まえた作品であり、わたしには史的イエスならびに原始キリスト教団の信仰を理解するための入り口となった。十字架のイエスを見捨てて逃げ出した弟子たちが、その後イエスを神の子と信じるに至った過程を通して原始キリスト教団がイエスをどのように信じていったのかを考えさせられた。
大学では聖書学に関心を持った。福音書を歴史的に理解していくために伝承史、様式史、編集史的な観点から福音書を読む面白さを発見した。今となってみれば、これは遠藤周作の作品が思わぬ始まりだったのだと思う。
原始キリスト教団において伝承されてきたイエスに関わる言葉とその行動が、時代の変遷と共に口伝承から文書化されていく時期を迎え、それらがさらに編集されていく段階があった。その過程と原始キリスト教団の置かれた歴史的状況の中で、イエスの言葉がどのように語られ、どのように伝えられようとしていったのか、その意図するところを受け止めるために聖書と向き合うことを教えられた。これは牧師になってからも変わらない重要な視点である。教理的に聖書を語ることを否定するものではないが、しかし、この視点は聖書からリアルなメッセージを聴くために欠かせないと思っている。
(にしおか・しょういちろう=日本基督教団千葉教会牧師)