キリスト教史は国境によって分断化されたもの、という認識があたりまえである。では移民キリスト教史の場合のように、特定国家の領土外に移動し、滞在、永住または転移民するキリスト者の場合は、どのように記述すればいいのか。出身国及びホスト国家両方にまたがる活動を行う人々を主体とするキリスト教史は、一国史観に立つならば、二つに切り裂かれたものとならざるを得ないのか。このような疑問を懐かせるきっかけとなったのが、杉井六郎『遊行する牧者─辻密太郎の生涯』(教文館、1985)であった。
辻は、1880~90年代に日本で、20世紀前半期にハワイとアメリカ本土で組合教会牧師として同胞への伝道に献身した人物である。日本キリスト教史、ハワイ及びアメリカ本土の日系人キリスト教史においても、個別教会史まで見ないと名前を見つけることができない。辻は、欧米の人種主義(集団別に差別化する)的国家形成を真似、アジアを踏み台に一等国化を進めている日本と、それに同調する組合教会の自給自治政策下に周縁化され捨てられていく地方の信徒の立場に立って組合教会を批判し、最終的に組合教会を脱会する。その後、ハワイやアメリカ本土に移民した信徒達を追って日本人移民教会の牧師となる。
辻は、アメリカでも、人種主義的国家形成を担う米国社会からの「同化」と「排除」攻撃下に苦しむ日本人移民信徒の代弁者、擁護者として、地方の日本人移民農業従事者の友であり続けた。米プロテスタントに対して苦言を呈しながら、日米人の新たな関係の有り様を模索し続けた。辻にとってキリスト教は国境によって分断不可能なもの、むしろ両者を繋ぐ役割こそ担うべきものであった。
ナショナリズムが世界を席巻しつつある現在であるからこそ、「越境」・「繋ぐ」視点からのキリスト教史の見直しが必要ではないだろうか。
(よしだ・りょう=同志社大学教授)
吉田亮
よしだ・りょう=同志社大学教授