これまで出会った本や人を振り返る機会を今回いただき、本棚を物色した。大学時代の恩師、速水敏彦先生の『新約聖書・私のアングル』をまずは手に取り、表紙を開いたその瞬間、男性用の腕時計がおおらかに描かれたハガキが目に飛び込んできた。先生が定年後に初めて描かれたというその絵手紙には、割り箸ペンのユーモラスな筆跡で「時は金なりとは?」と書き添えられている。最後の大きな疑問符に、先生のしなやかな批判精神を懐かしく思い出す。
この絵手紙から四半世紀が経つが、師からの問いかけには答えを出せないままだ。途方に暮れて本棚に視線を戻すと、ミヒャエル・エンデの『モモ』が目に留まった。初めて手にしたのは高校生の頃、それから折に触れ読み返してきた。聖書はもちろんのこと、大切な本を繰り返し読むのは良いものだ。心のありようによって響くことばや見える景色が変わる。若い頃には読み飛ばしていた箇所に立ち止まるようにもなる。コロナ禍の日本で『モモ』ブームが巻き起こったが、私もオンライン授業動画作りに明け暮れた孤独のなかでふたたび読み、対面の人間関係の大切さを再認識した。いまならどんな感想を抱くかと思い、読み直してみた。
無駄な時間を「時間貯蓄銀行」に預けるよう灰色の男たちに唆された人々が掲げるスローガンがまさに「時は金なり──節約せよ!」だった。時間を節約して稼ぐことのみに注力する人間の生活はみるみる荒んでいく。切り詰められるのは、友情や愛情から心をこめて他者と分かち合う時間だからである。だが、本当はこうした時間のなかにこそ、自己の内面に出会いと決断の時〈星の時間〉、すなわちカイロスが生じる。「時間とは生きるということ」というエンデのメッセージが今回の再読でひときわ心に染みた。せわしない自分を反省。
「ね?」とウインクする恩師のはにかんだ微笑みが心に浮かぶ。
(みやたに・なおみ=国立音楽大学音楽学部教授)
宮谷尚実
みやたに・なおみ=国立音楽大学音楽学部教授