とりたてて「文学青年」だったわけでもなかった私が、三十代を過ぎてから物語を少しずつ読むようになったきっかけの一つは、カナダへの留学であった。留学中、主日礼拝の説教の中で、トールキンやルイスといった、いわゆる「インクリングズ」のメンバーの作品がイラストレーションとして用いられる場面に度々接した。殆ど彼らの作品を読んだことがなかった私は、説教者たちがそうした作品を引用する意図を知りたいと思い、彼らの作品を読み始めた。ルイスの『ナルニア国物語』から始まって、トールキンの『指輪物語』も読んだ。そうして彼らが紡ぎだした物語に、次第に引き込まれていったのである。
帰国後も物語への憧れはなくならず、むしろ日々強められていった。特にトールキンの『シルマリルの物語』には圧倒された。彼は物語の世界を創出するためにエルフや人間、ドワーフの言語を一から作り上げた上で、天地創造から始まり終末までを見据えた「中つ国」の栄枯盛衰の物語を描き出す。私はこの壮大な物語の世界の虜になった。
しかし、単に壮大なスケールの物語だけを好んで読むようになったかと言われればそうでもない。トールキンとは全く違う設定で物語を記しているマリリン・ロビンソンの作品に出会ってから、彼女の作品も大好きになった。アイオワ州の架空の田舎町ギレアドを舞台にした「ギレアド三部作」(『ギレアド』のみ邦訳あり)は、牧師やその家庭のことがテーマになっていることもあって、繰り返し興味深く読んでいる。
スケールの大小にかかわらず、「本物」の物語には共通して、私たちを真実で気高いこと(フィリ4・8)へと方向づけ、私たちの生き方を変える力がある。そしてそうした物語を「本物」にしている重要な要素。それは、作者たち自身を生かしている神の救済の物語そのものであると言えるのかもしれない。
(たなか・ひかる=東京神学大学准教授)
田中光
たなか・ひかる=東京神学大学准教授