半世紀以上、地方の一教会で奉仕した牧師の子として育まれる中、いわゆる「いい子」でいることが期待され、そのことを自身にも強いてきた。学生時代は実家を離れていたものの、得体が知れない「牧師(教会)の子」という虚像を背負い、喫煙の事実さえも親に隠し、弱音を吐くことを避けてきた。教会生活の中で「良い・正しい」と称される尺度(敬虔、献身、柔和等)に規定された世界へ自分自身を閉塞させ、主イエス以外(人間的評価や評判)を拠り所とする傾向へと陥っていた。
奇しくも、キリスト教主義大学で宗教教育の責務を負うこととなった頃、「宗教的人間・使徒的人間」との言葉に出会った(富岡幸一郎『使徒的人間カール・バルト』講談社2012年)。宗教的人間は「俗なる世界」に対して「宗教的人間」を想起し、いわゆる「良い人」を目指し、人間が作り上げた「宗教的なるもの」の再評価、美化へと陥る。換言すれば、自己賛美・美化といえる。一方、使徒的人間は、「自己のなかに『住んでいる』宗教から解き放たれ、『空洞を露呈する人間』として、そこに再生する(同123頁)」といえる。十字架上に死んだキリストによって、私たちの作り上げた「正しさ、美しさ」が解体され、撤去される。その只中に新たな世界が創出する(同書参照)。
恥ずかしながら、バルトの神学的挑戦を「小難しい神学」とラベリングし、神学的思索を深めて来なかった。「空洞を露呈する」との言葉表現が心に染入り、自らの正義に固執することを手放す喜びへと招かれた。信仰の歩みとは、私だけの賜物を活かし、私を満たすことではない。聖書が伝承する人間創造においても、私たちの生命は「外側からの介入(命の息)」に根拠づけられ、「関係性(人が一人でいるのは良くない)」が尊重される。ボブ・ディランの反戦歌(風に吹かれて)のごとく、答え(正しさ)は私たちの手中にはなく、「風」の中にある。露わとなった空洞にこそ主の息吹が注がれ、新たな生命が創造される。
(こざき・まこと=同志社女子大学生活科学部教授)
小﨑眞
こざき・まこと=同志社女子大学生活科学部教授