長岡輝子さんの楽屋付きとして一日を過ごしたのは、四半世紀前のことです。両国にあるシアターχという劇場で「長岡輝子 宮沢賢治を読む」という公演が一日限りで行われました。当時私は30になったばかり。よい役者になりたいよい作品に出会いたいと、芝居のことばかり考えて過ごしていました。そんな私を可愛がってくれた演出家が、「勉強になるから」と長岡さんの楽屋のお世話を命じたのです。
前日に96歳の誕生日を迎えた長岡さんは、座っているのも大儀なご様子でした。楽屋から舞台への移動もスムーズにはいきません。エレベーターを使い、いったん劇場の外に出て、大道具用の搬入口から舞台監督に抱えられるようにして、長岡さんは文字通り舞台裏に「搬入」されました。それも休み休み、長岡さんのペースに合わせて。
とうにベルは鳴っています。開演時間からすでに10分。劇場は満席です。けれど、5分たっても10分たっても、客席からは物音ひとつしません。私はそっと舞台袖から客席を伺いました。皆、身じろぎせずに長岡さんを待っているのです。長岡輝子の朗読を聴きたい、宮沢賢治を味わいたい、その静かな期待だけが劇場を満たしていました。
動くことも難しく見えた長岡さんは、袖から舞台に出たその途端、客席に笑顔を向けながら、中央にしつらえた椅子に向かって優雅に歩き出しました。満堂の拍手。そして穏やかかつ凛とした『雨ニモマケズ』。
長岡さんを間近に拝見したのはそのとき一度切りです。けれど、牧師としてお仕えする今、講壇に向かう私には、あの時の静まり返った客席と、長岡さんの謙遜にして堂々たる佇まいが蘇ります。私は心の帯を締め、十字架を見上げつつ私の主に問います。僕の口を通して語られる言葉は、神の言葉として会衆の皆さんに期待されているでしょうか。聖書の言葉は礼拝堂に屹立しているでしょうか、と。
友野富美子
ともの・ふみこ=日本基督教団吉祥寺教会牧師