希望に満ちあふれる聖書講解
〈評者〉富岡幸一郎
著者の前作『内村鑑三│私は一基督者である』(二〇一六年、御茶の水書房)は、内村鑑三の再臨信仰に徹底的に集中することで、その無教会信仰の本質に迫った画期的な一冊であった。それから四年の歳月、これまでにない内村研究の大著が準備され、ここに大輪として開花した。
ここに至る出発点は、文芸批評家としての若き著者が出会った椎名麟三の文学である。本書の「あとがき│懐疑の森のなかで」でも記されているが、絶望的な懐疑のなかから「復活のイエス」による回心を体験した椎名文学を追っていく途上で、著者は滝沢克己の著作集と出会い、カール・バルトを知り、埴谷雄高の『死霊』に「希望の文学」を読み解こうとした。そしてついに内村鑑三の言葉と邂逅する。それは著者自身の半生と重なり、東日本大震災とフクシマの原発事故などの苛酷な現実のなかから、再臨信仰へと至る道である。
本書の「プロローグ 神の言のコスモス」に、「信仰は詩である」との内村の言葉が紹介されている。《信仰は詩である、歌である、音楽である、思索ではない、議論ではない、然ればとて思索し難い者ではない、余り深くして思索し尽すこと能(あた)はざる者である、故に信仰は之を表はさんと欲して自(おの)ずから断言するのである、曰(いわ)く「我れ信ず」と》。
「我れ信ず(クレドー)」はただ個人の信仰ではなく、人間の思索を超えて、天然(自然)と宇宙とに木霊する。著者はだから次のように明言する。《旧新約六六書は、相互に共鳴し合いながら、そのいのちである「再臨」という宇宙の完成を、復活、昇天後のイエス・キリストの「待望」を告げ知らせている》。
内村の再臨信仰は、第一次大戦におけるキリスト教国の戦争や愛娘ルツ子の死などの要因もあったが、何よりも一九〇〇年の『聖書之研究』創刊と、『余は如何にしてキリスト信徒となりしか』でも記されている米国留学期の「旧約聖書の預言」との遭遇以来の聖書熟読のもたらした結果であった。旧新約聖書を”読み抜く”ところにこそ、この近代日本の真実なる「一基督者」の信仰の基盤があったのはあきらかだろう。
本書の醍醐味は、この内村の聖書講解を軸にして、旧約から新約へ、作中の目次の標記にしたがえば、「楽園喪失(パラダイス・ロスト)ー堕罪と預言」から「楽園回復(パラダイス・リゲインド)ー贖罪と福音」へと、常に終末論の希望のなかで、生き生きとした言葉で聖書が読み解かれていくところである。旧約の「士師記」が神の民の反逆史であるからこそ恩恵史であり、史書「サムエル記」との間に置かれた「ルツ記」(不敬事件で世を追われた内村の最初の聖書注解書)がユダヤの明るい「田園詩」として紹介される。文芸批評家ならではのミルトンやドストエフスキー、高橋たか子や丸谷才一などの補助線も引かれているが、『聖書之研究』の重要な協力者であった藤井武の聖書解釈を参照しているのは興味深い。
「エピローグ 黙示と再臨ー新しい楽園を生きる」は、「ヨハネ黙示録」が俎上に乗せられるが、ここでは内村の再臨信仰と藤井武の「黙示録講義」がクロスし、ロレンスの『黙示録論』から『カラマーゾフの兄弟』へと、実にダイナミックな終末論が展開されている。まさに「神の言のコスモス」の類のない美しさが、ここに希望の神学として充溢する。
富岡幸一郎
とみおか・こういちろう=文芸批評家