難解な神義論の歴史を常に「苦しむ者の視点」に立って
〈評者〉魯恩碩
本書は、キリスト教神学における最大の難問「神が全能で善なる存在なら、なぜ世界に悪と苦難が存在するのか」(神義論)に対し、聖書学と組織神学の双方から真摯に向き合った労作である。著者は2011年の東日本大震災や、現在も続くパレスチナでの無差別な殺戮などの悲惨な現実を前に、「なぜ神はこれを許しているのか」という切実な問いを自らの研究の中心的課題に据えた(4 −5頁)。
本書は大きく二部構成をとる。第一部「聖書での悪の問題」では、旧新約聖書がいかに苦難と向き合ってきたかを跡付ける。旧約聖書の主流である「応報思想(因果応報)」の限界をヨブ記の嘆きから浮き彫りにし、義人の理不尽な苦難に対する聖書的な応答を探求する(60−67頁)。特に注目すべきは新約聖書のイエスの姿勢である。イエスは、病や障がいを「罪の罰」とする当時の支配的な見方を明確に否定した。そして「なぜ悪があるのか」という理論的な問いに答えるのではなく、苦しむ者に対してはらわたがちぎれるように「深く憐れみ」(98−99頁)、病を癒して社会的な関係を回復させるための実践的行動をとったことが強調される(96−97頁)。
続く第二部「組織神学の神義論」では、歴史上の代表的な神義論を検証する。アウグスティヌスから現代のプランティンガへと連なる「自由意志弁護論」(141−152頁)や、エイレナイオスから現代のジョン・ヒックへと発展した「魂の形成(成長)論」(153−166頁)の意義を認めつつも、著者はこれらを鋭く批判する。ヒックは苦難を人格的成長のための環境や道具と見なすが、無垢な子どもの苦痛や、アウシュヴィッツの極限の悪は、決して霊的成長の手段として正当化できないと論じる(158−166頁)。さらに、アウシュヴィッツを経験したユダヤ人の「抗議の信仰」やエリ・ヴィーゼルの思想を紹介し、神を法廷に引きずり出して有罪を宣告しながらも、なお祈りを捧げ、神との関係を放棄しない彼らの壮絶な実存的姿勢に深い共感を寄せる(182−196頁)。
本書の最大の長所は、難解な神義論の歴史を無味乾燥な教理の羅列に終わらせず、常に「苦しむ者の視点」に立って評価しているところにある。「どのような苦しみも、決して、神が望んで私たちに与えた『神のみ心』などではない」(203頁)と言い切る牧会的な結論は力強い。神は不条理な苦難のただ中で私たちに寄り添い、共に痛む存在である。聖書は悪の存在理由は説明しないが、私たちが悪と闘い、苦しみを減らしていく力を神が与えておられることを示している。
他者の痛みを「神の計画」という名のもとに安易に正当化することを拒む本書の姿勢は、不条理な悲しみの淵にあり、「これは神からの罰ではないか」と自らを責める人々に、深い慰めと解放をもたらすはずである。一般読者に向けて平易に記されているがゆえに、「神の全能性と善性」という哲学的難問に対する組織神学的な最終回答としては、さらなる展開の可能性を期待したい部分もある。しかしそれにもかかわらず、本書は苦難に直面する私たちがいかに実践的に応答すべきかという地点へと読者を導く、豊かな力を備えている。神学生や牧会者はもちろんのこと、理不尽な苦しみの意味に思い悩み、神への問いを抱えながら生きる現代人に広く薦めたい一冊である。













