もし、無人島に一冊だけ本を持っていくなら、「聖書」にしよう。デフォーの小説に出てくるロビンソン・クルーソーも、実在したクワイ河収容所のアーネスト・ゴードンも、聖書を読んだ。そして立ち直って、生きた。やはり聖書は「いのちのことば」なのだ。
身近なところにもいる。洗礼を受けるまでの、ほんの1年足らずの準備期間に2度も通読した人がいて、試問会の席で長老たちを平身低頭させた。新改訳を13回読んだ人、新共同訳を40回読んだ人、聖書協会共同訳を9回読んだ人も知っている。読み通したことをみな笑顔で楽しそうに話す。しかもドヤ顔ではないのだ。イヤミがないのだ。清々しいのだ。日常いろいろ大変なことがあるはずなのに、心の芯に幸福を宿しているように見えるのだ。
詳しく書くと個人が特定されて差し障りがあるのだが、ふだんから我がままと毒舌で周囲を辟易させていたおじいさんが、あるとき重病で入院し、退屈で絶望的なその期間、病室で聖書を通読した。それと関係あるかどうかは誰も実証できないのだが、その間に彼は主治医も不思議がるほどの完全治癒を体験し、ついには人柄もすっかり清まって退院してきて、人々を唖然とさせたのである。
そういう証人たちに雲のように囲まれているので、いざ自分が始めてみると、あれあれ、どうして、なかなか読み終われない。私たちの間で「聖書通読」は「挫折」の代名詞にもなっているのだ。読み始める決心の真実は、神と人の前に偽りないもの、だったはずなのに、毎年初めに「創世記」1章を開き、そしていつしか、多くの通読者が消息を絶つ難所と名高き「レビ記」に没する。この短い旅をいったい何度くりかえしたことだろう。
なぜ、とまる?? やはり難しい??
この現象は他の書物では起こらない特殊なことに思える。本誌を愛読するほどの読書好きで、大著も読破してきた人ほど、かえってその経験がアダになっているのではないだろうか。読めばわかる、これも読んでモノにしたい。感動したい。そういう人にとって聖書は手ごわい。今までと同じようにはわからないのである。他の書物のようにいかないのである。読めてもわからないのである。いったい自分はいま何を読んでいるのだろうか、何がわかったら「わかった」ことになるのだろうか、そこがわからなくなるのである。一生の問いである。
このように苦しみあえぐ人たちのために編み出された数々の力作の中から、私が勝手に選んだ3つを世に出た順にご紹介したい。
『聖書人物おもしろ図鑑 旧約編』

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『聖書人物おもしろ図鑑 旧約編』
大島 力:監修
古賀 博、真壁 巌、吉岡康子:編
金 斗鉉:イラスト
日本キリスト教団出版局
2015 年刊
四六判
112 頁
1,650 円
まずは、『聖書人物おもしろ図鑑 旧約編』。関わったのはソウソウたる顔ぶれ。あの日本キリスト教団出版局から満を持してカラー印刷で世に送り出されて、いまや誉れ高い名著である。
この本で最大の貢献をしていると思われるのは、イラストの金斗鉉さん。この人が描いた、息をのむほどに壮大な聖書物語の光景の名画の数々が、惜しげもなく縮小されてあちこちに使用されているばかりか、この本の目的である、聖書に登場するキャラクターたちの顔が、何の根拠もないのに本人によく似ているかもしれないと思わせる味わいあるタッチで描かれている。子どものころ読破した『プロ野球図鑑』か、うちの子どもが座右の書にしていた『ポケモン図鑑』を思い出させる。人物の基本情報は簡潔で手堅い。(例)「ヨブをなぐさめにきたけど、最後には責めてしまったお友だちのみなさん」(47頁)、「ヨナタン 好物:ハチミツ」(56頁)。地図も充実。そして何といっても重宝するのは系図。
石ころのようにもみえる無味乾燥なカタカナの名前が続く荒れ野を行くときも、この図鑑を手にして進めば、聖書人物がみな立ち上がり、動き回っている、その賑わう世界に入り込んで聖書が読める。北へ、南へ、また北へと振り回されながら読む「列王記」も、王の名前と系列が一目でわかる。レビヤタンとベヘモットまで、きっちりと解説されているぞ。今回は本欄の数に入れなかったが、後発の姉妹編である「新約編」も好評。
『1冊でわかる聖書66巻+旧約続編』
では2冊目『1冊でわかる聖書66巻+旧約続編』。小友聡、木原桂二共著、これも日本キリスト教団出版局から。
「創世記」「出エジプト記」と各巻もれなく、どういう書なのか、いったい何を言いたくて書かれているのか、どこが読みどころなのか、これをたった2、3ページでまとめている。その配分は長大な「イザヤ書」も、マイナーな「ナホム書」「ハバクク書」も、「ローマの信徒への手紙」も「フィレモンへの手紙」も公平。短いから読み疲れない。これを読んでから聖書を読んでもいいし、聖書を読みながら、これを開いて、また聖書に戻ってもいい。 多くの通読者は「出エジプト記」後半で、もがいている。特撮映画の見せ場で盛り上げておいて、ここでなぜ律法? このあたりのこともちゃんと見通しよく案内してくれる。
「レビ記」も、「おもしろくないなあ」と心に思っていても口に出せないでいるモヤモヤに共感してくれていて、コツも教えてくれて、うれしい。「幕屋での祭儀」の煩瑣な規定に一貫する「礼拝の神学」を読み解きながら、私たちの毎日曜日の礼拝にも引き寄せ、霧が晴れるようなアドバイスがあるから、これで「レビ記」が読めるぞ。
執筆者のお二人は難しいことをいっぱい研究しては成果を挙げてきた博士たちなのに(だからこそというべきか)その見識のこなれ方に胸を打たれる。聖書が教会でどう読まれてきたのかという視点で案内してくれる、聖書への入門書であり、教会への入門書でもあり、この世でみことばに生きることへの入門書でもある。
さっき紹介した本も、こちらの本も「旧約続編」までカバーされている。ちょっと代金を上乗せして続編付き聖書を買った人たちはいるものの、うちの教会では続編を使わないので、買ってよかった、という声を聞かない。続編にどんな気持ちで踏み込んだからいいのか、心構えもできないで、うろうろしている人、きっと役に立ちます。
『聖書通読31 ─神の救いをたどる旅』
さて、いよいよ3冊目。『聖書通読31』。いつもどこかに執筆なさった文章が活字になっている石田学氏が送り出した本書は、日本キリスト教団出版局から刊行された「31」シリーズもののおそらく最後の1巻である。良書を生み続けながらも大赤字を抱えてついにこの春には悲しき「整理」の憂き目に遭った同出版局への敬意をここで表したい。聖書を読みたいと思っているのに手引きがなければわからないよと嘆いて、ひとり馬車で旅するエチオピアの宦官に伴走して励ますフィリポのような書が途絶えないようにと切望するものである。
この本が出たとき書名を見た家人は「ええっ、1か月で聖書を全部読めるの??」と声を挙げた。もしかして同じ誤解をした人がずいぶんいるのではなかろうか。いやいや、これは「31 日間で聖書が通読できる本」ではなく、聖書の中から31カ所を選び出し、黙想と祈りで、聖書全体を読むおともをしてくれる本である。
本書は聖書に「神の救いの歴史」という一貫したテーマを追っている。「人間から救いが来ることはない」「人からではなく」という句も対照として繰り返される。あの「レビ記」からも19章1−4節「聖なる者となりなさい…」が選び出されていて、短い黙想の中に用語解説もあり、旧約の物語の前と後ろを見渡す。「神の形であるキリスト」(フィリピ)と「神のかたちであるキリスト」(コロサイ)、区別つきますか。
それぞれの最後には大きな文字で「祈り」が記されている。声に出して読んでみてください。このような祈りへと導くようなことがその聖書箇所には書かれていたのだ。祈りから聖書へ、聖書から祈りへ。それが起こるとき聖書を読めているのだ。聖書がわかるとは、神がわかることだから。そして、「だから私たちは生きていける」ということがわかる。聖書の最終巻にあるように、パトモス島に流されたあの人も、だから生きた。そして私たちに書き送ったのだ。



















