人の魂の美しさを歓ぶ境地へ
〈評者〉鶴岡賀雄
ギュイヨン夫人として知られる十七世紀フランスの代表的神秘家による、旧約雅歌の解釈書である。彼女が長い苦しみの時期を通り抜けて霊的自己を確立し、猛烈な執筆意欲に駆られた時期の作品で、訪れる人々に対応する合間をぬって「わずか一日半で」書いたと回想している。自分が書いたというより、内なるなにかに駆られるままにペンを走らせた、というのが実感だったようだ。翻訳は一六八八年刊の初版に拠り、綿密な書誌情報が付されている。
訳者大須賀氏は、すでに同じ著者の『短く簡単な祈りの方法』の邦訳を、同様の造本装幀で刊行している(二〇二二年)。両書は執筆時期も近く(一六八五年、著者三十七歳ころ)、併せて読むのがふさわしいだろう。『祈りの方法』は、表題どおり、ギュイヨンが自ら実践していた内的祈りとはなにか、その具体的なやり方やステージの進展を簡潔に説いた、いわば概説理論書である。対して『雅歌註解』は、内的祈りの実践のよって人がじっさいに経験する(ことが期待される)ことを、雅歌の霊的解釈として語ったものといえる。雅歌の花嫁を人間の魂、花婿を神のなぞらえと見て、二人の愛の深まりの過程を神との合一にまで到る魂の道行きの比喩とするのが婚姻神秘主義の枠組みだが、ギュイヨンは自身が身をもって経験した愛の合一、霊的婚姻の状態とはどんなものかを、雅歌の花嫁、花婿の言葉に自分の言葉を綯い合わせるようにして、自在な語り口で語り尽くしている。理論編にたいしての実証編といえよう。
だがこの書は、『祈りの方法』とともに、当時のカトリック教会から異端と断じられたのだった。その廉でギュイヨンは収監され、長い迫害の年月を送ることにもなった。
この点では本書は、十七世紀後半のカトリック世界における神秘主義的潮流の高まりと終焉の経緯を見るに最重要な著作の一つである。両書への行き届いた「解題」を参照されたい。しかしそうした宗教思想史的関心を、この邦訳書はなにか空しいものにしている、と私には感じられる。そんなこと以前に、本書を書く(書かされている)ギュイヨンの魂の熱量が、また美しさが、読む者にまっすぐに伝わってくるからだ。訳者が、雅歌の言葉も含めて原著の雰囲気をそのまま掬い取り、読みやすく勢いのある美しい日本語にうつしてくれているからでもある。
「美しい」という言葉を重ねたのは、本書の美しさが、ギュイヨンが見て取る雅歌の花嫁=完徳の魂の美しさの、遥かではあれ確かな反映のように思えるからである。雅歌七・七の註解にはこうある。「神は花嫁の中に、自らの完成を見ます。それは鏡の中のように、忠実に映し出されます。神はご自分の中で、花嫁の美しさを見つめ、心奪われ、花嫁に言います。『おお、わが愛しい人、あなたは私の美しさの中で、何と美しい! 私の美しさはあなたの中で、何と美しい!〔… …〕あなたは美しく、魅惑的だ。私のあらゆる完成で飾られているから。あなたは私の歓喜の泉、私もあなたの歓喜の泉。私たちのよろこびは共通のものなのだ』」。人の(また自分の)魂の美しさを、躊躇いの影ひとつなくこんなふうに歓べる境地がありうること、読者はまずこれを、驚きをこめて認めるのがよいだろう。さまざまな反省的読みもそこから始まることだろう。













