常に信徒の身近にあるべき祈りへの格好の入門書
〈評者〉松島雄一
「主イイスス・ハリストス神の子や、我罪人を憐れみ給え」
評者は正教信徒ですので、日本正教会で親しまれ続けてきた翻訳で「イイスス(イエス)の祈り」を冒頭に掲げさせていただきました。「イイススの祈り」は、古代教会から積み重ねられてきた斎(ものいみ・断食)期間の奉神礼(典礼)の伝統が、11世紀頃に集大成され今日のかたちに確立した「大斎祈祷」の対極をなすもので、両者相まって正教の祈りの伝統の「多様性と一致」を証しています。大斎の奉神礼が信徒の日々の信仰生活(主に飲食)まで含めて教会共同体全体で組織的に実践されるのに対し、教会暦の特定の期間だけではなく、共同体の信仰生活を支える個々の信徒の身近に常にある、またあるべき祈りです。
私たち信徒はことあるごとに、この短い祈りを口に心に繰り返し唱えながら、胸に心に十字を描いて、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)と約束して下さった主イイススのもとに立ち戻ります。しかしそれはイイススに何かを「祈願」する祈りではありません。カリストス主教は、それについて、毎日教会で何時間も何もせずに過ごしていたある老人の逸話を通じて紹介しています。
「そこで何をしてるんだ」と尋ねた友人たちに老人は「祈っているんだ」と答えます。友人たちが「神にお願いが一杯あるんだね」と言うと、老人は答えます。「何も願っていない。ただ座って神を見ている。そして神も座ってわたしを見ておられる。」(本書10頁)
カリストス主教はこの老人の祈りを「それはただ見つめるという祈り」と述べ、そこに「イイススの祈り」に底流19するものを見ています。
こんな「イイススの祈り」は西方世界ではサリンジャーの『フラニーとズーイ』で、この祈りの実践を伝えるロシアの一庶民の手記『無名の巡礼者──あるロシア人巡礼の手記』(A・ローテル、斎田靖子訳、エンデルレ書店、一九九五年)とともに紹介され、広くキリスト教徒以外の人たちにも知られるようになりました。ただ我が国ではまだよく知られていません。本書はこの祈りの歴史や、信仰的な意味、さらに実践方法にまで触れた格好の入門書と言えましょう。
最後に、祈っている時にしばしば心にすべり込んでくる「雑念」に悩まされがちの私たちのために、カリストス主教は次のように「イイススの祈り」を処方してくれます。
「(そんなとき)『考えるのをやめろ』と自分に言い聞かせたところで、ほぼ無駄です。意志の働きだけで脳内のテレビを消すことはできません。人間の心は、何かしないではいられないのです。解決策は、単純で求心力のある仕事を心に割り振ることです。そのようにして、活動してやまない心を満足させるのです。それはつまり、イエスの聖なる御名を繰り返し、呼ばわることです。」(本書49頁)














