キリシタン研究の最新成果
〈評者〉大橋幸泰
長崎で元和大殉教が起こった一六二二年、ローマではイエズス会創設メンバーのイグナチウス・ロヨラとフランシスコ・ザビエルが列聖されるとともに、布教聖省が創設された。本書は、この年から四〇〇年目の節目にあたって、キリシタン文化研究会が取りまとめたキリシタン史研究の最新成果である。
本書は、序章(川村信三)、第一部「元和大殉教とキリシタン」(浅見雅一〈まえがき〉/デ・ルカ・レンゾ/清水有子/竹山瞬太)、第二部「元和期の宣教活動──新たな時代の幕開け」(東馬場郁生〈まえがき〉/阿久根晋/木﨑孝嘉/小俣ラポー日登美)、第三部「潜伏キリシタンの信仰」(川村信三〈まえがき〉/宮崎賢太郎/中園成生/東馬場郁生)、第四部「天下人の自己神格化とキリスト教」(清水有子〈まえがき〉/川村信三/タイモン・スクリーチ/野村玄)、終章(清水有子)、のように、四部一二本の論文によって構成されている。「殉教」・「宣教」・「潜伏」・「神格化」をそれぞれキーワードとする各部のテーマは、いずれもキリシタン史を考える上で欠かせない。どの論考も興味深いが、評者がもっとも興味を持った第三部「潜伏キリシタンの信仰」にしぼってコメントしよう。
宮崎賢太郎氏がキリシタンは多神教であるから「『日本キリシタン式先祖教』とでも呼ぶのがもっとも実態にふさわしい」と主張するのに対して、中園成生氏は「地域に展開する信仰的要素はムラ(村落共同体)やイエ(家共同体)が持つ多様な側面の一つ」であり、「それはキリシタン・かくれキリシタン信仰についても当てはまる」と指摘し、東馬場郁生氏はキリシタンの信仰用具に注目して、その宗教活動について「潜伏」や「隠れ/かくれ/カクレ」とは異なる独自の意味を考えようとしている。第三部のまえがきを担当した川村信三氏は、三者の議論を「問題提起の仕方は異なるが、目指されている結論は同じものではないかという感想」を持ったという。確かに「従来の日本キリスト教史(キリシタン史)のヒストリオグラフィー(歴史叙述)への反省が、各々違った形で表現されている」という指摘はその通りであろう。そのことを確認した上で、東馬場氏が「歴史家がきりしたんの信仰を『適応』や『変容』と表現する場合、それを語る歴史家自身の立ち位置」は「宣教師のそれに近い」と指摘していることは特に重要である。なぜならば、歴史家がキリシタン史について考察しようとするとき、キリスト教は時間を遡っても不変であり、地域をまたいでも普遍であるという暗黙の理解を前提としてきた問題性がするどく指摘されているからである。
これを真摯に受け止めるならば、過去の事実を再構成してその歴史的意味を考えるというミッションを担う歴史家は、宣教師とは目的が異なるが、彼らと同じようにさまざまな分断をもたらしていることに自覚的であるべきである。そうした視点に立って考えれば、キリスト教を厳格に定義づけようとする行為そのものが、時系列的にも地域的にも「正統」キリスト教とは隔たりがある潜伏キリシタンに寄り添うことにはならないのではないか。あらゆる枠組みは、できるだけゆるやかに理解するのが望ましい。だとすれば、キリシタンもキリスト教の一形態であると理解するのがよいというのが評者の意見である。
大橋幸泰
おおはし・ゆきひろ=早稲田大学教授