一昨年の12月に『宗教の信仰等に関係する児童虐待等への対応に関するQ&A』が厚生労働省から通知されました。これは、宗教の信仰に関連した児童虐待が「信仰に絡んでいるから」という理由だけで扱ってもらえなかったり、消極的な対応になったりすることを防ぐために、具体的な事例や留意点、現時点で活用することが想定される支援制度などを整理して作成されたものです。
これができた背景には、本来虐待に当たるものが、宗教や信仰を理由にして擁護され、見逃されてきたために、多くの人が苦しんできた現実があります。たとえば、「宗教活動へ参加することを体罰により強制する」「交友や結婚の制限のため脅迫や拒否的な態度を示す」「宗教団体の職員等に対して、自身の性に関する経験等を話すように強制する」などが挙げられます。
翌年10月23日に、日本基督教団から発表された「いわゆる『宗教二世』問題を新たに作らないための約束と宣言」にもあるように、宗教の信仰などに関係するこうした虐待は、「カルト」と認識されていないキリスト教会にとっても無縁ではありません。教会が一部加担してきた女性差別、同化政策、宗教的迫害と同様、信仰が絡む虐待についても、自発的に問い直すときが来ています。
しかし、「信仰と虐待」という言葉を聞くと、「それはカルトの問題であって、私たちの問題ではない」とする態度が、しばしばキリスト教会の中で見られます。そこで今回は、「カルトの」問題としてではなく「キリスト教会全体で」捉える問題として、信仰と虐待について考える材料を提供してくれる三冊を紹介しようと思います。
「信仰」という名の虐待
1冊目は『「信仰」という名の虐待』です。いのちのことば社から発行された21世紀ブックレットシリーズの17巻です。分厚い本を読むのが苦手な人でも簡単に読み切ることができ、Spiritual Abuse(信仰的・霊的虐待)の基本的な理解を助けてくれます。
この本では、一般的な宗教でも「信仰」の名目で人々の精神を操作してしまうケースがあると注意し、最初に二つの事例を紹介しています。1つ目は、礼拝の最中に、牧師が信者の一人を名指しで批判し、その人が悔い改めるまでメンバーと話をするのを禁じ、どんな行動をしたか全て自分へ報告するよう指示をした、というケースです。
2つ目は、牧師と長老が信者の家を一軒一軒訪ねてまわり、「ある人と交わりを持つことは神様から見てよくないから」と言って、交際をやめるよう指示をした、というケースです。どちらのケースも、信者が命令されるときは聖書の言葉が用いられ、従わなければ神の命令に背いたことになる……と恐怖を抱くよう誘導されていました。
実は、同様のケースを私自身も何度か相談されています。信者でない交際相手と別れて信者同士で結婚するよう強要された、言われたとおりに献金しないと神の祝福を受けられないと脅された、教会の運営や会計について不明瞭な部分を指摘したら除籍をほのめかされた……こうした問題が、宗教・宗派・教団を問わず起きており、どこの教会であっても、予防と対処に取り組まなければなりません。
同時に、こうした問題の被害者は、「神様を裏切り、悲しませた」「霊的におかしくなった」と言われて、さらに教会の中で差別を受けてしまうことがあります。「教会から離れれば地獄に落ちる」「永遠に赦されない」と言われ、逃げることも困難になります。何とか問題のあるところから離れられても、重い後遺症に苦しめられるケースもあります。
そのような生存者(サバイバー)のために、この本の1章6節では、回復のために必要なこと、役立つことのアドバイスもいくつか挙げてくれています。また、3章では、「信仰」という名の虐待からの訣別、予防をするために、自己や他者の尊厳を奪ったり、傷つけたりする教義内容・宗教思想の問題へ踏み込み、信仰を理由にして差別や虐待をする自由はないことを丁寧に強調しています。
LGBTとキリスト教──20人のストーリー
2冊目は『LGBTとキリスト教──20人のストーリー』です。
一昨年、日本キリスト教団出版局から発行されたこの本が出てまもなく、キリスト教メディアに載った、とある書評で当事者への無知や偏見に満ちた侮辱的・差別的内容が3回にわたって掲載されてしまい、多くの批判が集まりました。
私もショックを受けた一人でしたが、このことからも分かるように、キリスト教会で「信仰」を理由に擁護され、見逃されてきた虐待の一つに、性的少数者への虐待があります。一部の教会やクリスチャンの家庭では、今でも、特定の性自認や性的指向を「治療」しなければならない対象として、矯正を働きかけるところがあります。
LGBTに関する正しい知識や理解があれば、これらは紛れもなく、差別や偏見に基づいた身体的・精神的虐待であると分かりますが、その意識がないまま、「相手を正す」という使命感をもって当事者を傷つけ、命を削ってしまう行為があちこちで見られます。
この本の中でも、牧師やクリスチャンから「同性愛は罪だ」と言われた人、カミングアウトしたミッションスクールの先生にまともに向き合ってもらえなかった人、性的指向を明かす度に「あなたの恋愛やセックスの相手にしないでね」という態度を取られてしまう人などが出てきます。
そのような経験は、自分の言葉が届かない、受け入れられないという現実を強烈に刻みつけてきます。しかし、それでも、相手に分かってもらおうと、誰かに知ってもらおうと、自分に与えられた在り方を証言していく人の姿は、勇気と励ましを与えてくれます。彼らの姿は、故郷や母国の人々になかなか受け入れられなくても、与えられた言葉を語り続けた預言者の姿と重なるようにも見えてきます。
私の中で特に印象深いのは、教会でカミングアウトする勇気を出せずにいた方が、牧師に同性愛者と気づかれ、教会に行けなくなったことで、かえって自覚していなかった抑圧から解放された……と告白する姿です。その人はさらに、「10年通い続けた教会から切り離してくださったのは紛れもなく神さまだと感じています」と告げています。
それはちょうど、「汚れた者」として神殿に入ることを許されず、民と指導者から抑圧された異邦人や病人が、キリストと出会って解放され、良い知らせを伝える群れとなっていった福音書の奇跡を思わせます。この本で20人が紡いでくれたそれぞれのストーリーも、「信仰」という名の虐待からの解放と神さまとの新しい出会いをもたらす良い知らせとして、受け取ることができると思うのです。
キリスト教と社会の危機──教会を覚醒させた社会的福音
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『キリスト教と社会の危機──教会を覚醒させた社会的福音』
・ウォルター・ラウシェンブッシュ:著
・山下慶親:訳
・新教出版社
・2013年刊
・四六判 540頁
・6,710円
最後に紹介するのは、『キリスト教と社会の危機──教会を覚醒させた社会的福音』です。
もともと1907年に書かれベストセラーとなった本ですが、その100周年を記念して、各章に現在の牧師、教師、神学者などの「応答」をつけて2007年に再出版され、日本語に翻訳されたのが本書です。
先に挙げた2冊の本を紹介する際、教会における「『信仰』という名の虐待」や「性的少数者への虐待」について取り上げましたが、両者に共通するのは、「自分たちが虐待に関わっていると認識しない」「この問題に向き合う必要を感じていない」という態度がしばしば見られることです。
この本においても、搾取、差別、格差といった「社会的虐待」を受けている人たちが、教会において放置され、正面から向き合ってもらえない現状が描かれています。しかし、その態度は、貧しい者たちの弁護者であった預言者やキリストの声を無視することにならないかと、鋭く指摘もされています。
教会はしばしば、社会の問題を自分たちと切り離し、「ここはそういうことを考える場ではない」という態度をとってしまいますが、既に、ここには虐げられた人たちがいます。いないことにされて、無視されている人たちがいます。その人々が回復され、取り戻されていくことこそ、本来の教会の姿だと思うのです。
柳本伸良
日本基督教団華陽教会牧師