キリスト教の多声性を顕わにする最良の注解
〈評者〉河野克也
本書は、パウロの影響史を専門とする辻学氏が、『福音と世界』(新教出版社)に五年九ヶ月にわたって連載した牧会書簡(Ⅰ・Ⅱテモテ、テトス)の釈義にさらに大幅に手を入れて完成させた、実に七六〇ページにも及ぶ学術的注解書である。そこに展開される「新約聖書の一言一句と向かい合い、他の研究者との対話も含め、その意味するところをていねいに探」る(七五七頁)釈義は、文学批評の視点とも対話しつつ精度を増した歴史批評の最良の例と言えよう。また教育的配慮に満ちた本注解書は、読者が個々の章句に関して提示される議論を辿ることで釈義のプロセスを学ぶことができるように意図されており、辻氏の教育者としての熱意が読み取れる。
辻氏は本注解書において、牧会書簡全体として整合性の取れた読みを提示する。牧会書簡はパウロが弟子のテモテとテトスに宛てた三つの独立した手紙の形式で書かれているが、辻氏によれば、実際にはパウロの没後、パウロ書簡集が編纂され広く読まれるようになり、競合する「多様なパウロ解釈が生まれている状況の中で『正統』なパウロ理解を提示する」ために書かれた、三つで一つの偽書である(一〇─二四頁、引用は二三─二四頁)。それは、牧会書簡が取り組む諸問題、特に偽教師や間違った教えの問題が、パウロ自身の真正書簡における不明瞭な発言によって生じた側面もあるからであり、だからこそ、その解決を「正しい」パウロ解釈として提示したのである。
ただし、牧会書簡の提示するパウロ解釈がパウロ自身の意図と異なる場合もある。女性の従順を教える牧会書簡の女性観はその分かりやすい例であろう(一六八─九六、二八七─三二七頁:一テモ二・八─一五、五・三─一六)。辻氏はその背景として、教父たちも報告する極端な禁欲主義を主張した「節制主義者」(エンクラティータイ)の存在を指摘する(四三─四四、三二五─二七頁)。一コリ七章でパウロが非婚状態の維持を推奨したことを拡大して、彼らは「若いやもめ」たち(ギリシア語ケーラ[やもめ]は非婚女性全般を意味した)に禁欲を勧め、結婚と家庭に縛られることなく自立して活動することを教えたと考えられるが、牧会書簡の著者は、彼女たちがその影響を受けて一旦は禁欲の誓いを立てても、「女性たちには性的欲望があるから、禁欲主義的姿勢を維持できず、放蕩に走る」ことでその誓いを破り、罪を犯すことになると警告した(三一〇─一五頁:一テモ五・一一─一二)。牧会書簡の著者は、女性たちに沈黙を命じた(一コリ一四・三四─三六)パウロを後ろ盾に、女性たちが結婚して子どもを産み家庭内での役割をよく果たすことによって、外部の反対者に批判の口実を与えないようにと教えたのである(三一八─二一頁)。
この対応は「牧会書簡〔が〕、『家の秩序』というモデルを周囲の社会から取り入れることで社会に順応し、パウロの教説を教会職制の担い手によって守っていく」選択をしたことを示す(五二頁:S. Schreiberの説)。つまり、周辺社会に溶け込み、ローマ帝国内において安定して存続することを目指したということになろう。しかし、「この世の有様は過ぎ去る」(一コリ七・三一)との切迫した再臨信仰に生きたパウロは、その「過ぎ去る」社会への順応を命じるはずがない。はたして牧会書簡は「正しい」パウロ解釈と言えるであろうか。また、牧会書簡の著者は女性たちが性的欲望のゆえに禁欲の誓いを果たせないと考えたが、少なくとも、現代のわたしたちには、女性に対するそのような「相当ひどい偏見」(三一〇頁)を繰り返す選択肢はない。
牧会書簡によるパウロ思想継承の「正しさ」をどう評価するかはともかく、パウロの教えをパウロ自身の状況とは大きく異なる状況に適用させること自体は、私たち自身の課題でもある。パウロの名による牧会書簡として正典中にそうした試みが記録されていることは、逆説的ではあるが、「正解」が一つだけではないキリスト教解釈の多声性を、私たちのために担保しているのかもしれない。
河野克也
かわの・かつや=東京神学大学特任准教授