神学的探究の軌跡を辿る
〈評者〉小泉 健
東京神学大学では、定年退職する教員が最後の年に「最終講義」を行います。最終講義には大きく分けて二種類あるようです。一つは、神学者としてどのように歩んできたか、どのような課題に取り組んできたかを整理して総括するもの。もう一つは、長年にわたって神学研究を続け、展開や深化を経てきて、最終的に到達した地点を示すものです。どちらも興味深いものです。
近藤勝彦先生がなさった最終講義の題は「十字架と神の国」と言います。これは、先に挙げたどちらのタイプにも当てはまりません。この講義は、後に『贖罪論とその周辺』(教文館)という書物の一章となりました。つまり近藤先生は、いつでももっと大きな、そしてもっと意義深い著作を構想し、そのために必要な一つ一つの章を書くようにして、論文を書き、講演をしておられたということです。それは生産的であるための知恵でもありましょうけれど、それよりも、神に託された自分の使命を片時も見失わずにいて、何をするにしてもその使命を果たすこととの結びつきにおいてしていたということだと思います。
そんなわけで、(最終講義「十字架と神の国」は近藤先生の福音理解の中核が示されているたいへん充実した講義であったのではありますが)近藤先生の神学的な自伝のようなお話をうかがうことはできなかったのでした。近藤先生がどのような問題意識をもって学び、どのようにして神学研究の方向を定め、どのような歩みをたどって研鑽を深めてきたのか、ぜひうかがいたいところです。その願いをかなえてくれるのが、本書の前半三分の一を占めている「わたしの神学六十年」です。
神学的自伝と呼ぶべき文章は、いろいろな神学者が遺しています。今思い起こすのは、桑田秀延「神学とともに五十年」(『桑田秀延全集 第五巻』キリスト新聞社)です。これは「私(桑田)の角度から書いた自伝風なよみもの」でありながら、実は神学論であり、また神学校論になっているものでした。近藤先生の場合もそれと似ています。まったく個人的な歩みが語られているようでいて、実は現代の日本で神学的な主体を形成し、神学的な研鑽を続けていくための神学徒論なのです(「神学徒」は神学に取り組む牧師と信徒を含みます)。まるで近藤先生が隣りを歩いて、励ましたり、道を指し示したりしてくださるようです。
本書の残り三分の二には、七つの講演・論文が収められています。いずれも、近藤先生の主著であり、上下合わせて二千三百ページに及ぶ大著『キリスト教教義学』を読むための手引きをなすものです。およそ学術書を読む時には、その書物の特色は何か、独自な主張や新たな貢献は何かをつかむことが大切です。しかしそれができるためにはその分野についての正確で幅広い知識が必要で、わたしたちには難しいことです。
本書に収められた諸講演において、近藤先生は『キリスト教教義学』から学ぶべき要点を実にわかりやすく解説してくださいます。それは、わたしたちが教義学を捉える上で、よく考え、わきまえなければならない事柄でもあります。ここでも近藤先生はわたしたちの手を引くようにして、一緒に歩き続けてくださいます。
小泉健
こいずみ・けん=東京神学大学教授