説教とは、私たちが抱くイメージを、聖書が描き出す
新しいイメージに書き換えてしまうこと。
──平野先生に初めてお目にかかったのは、先生がアメリカ留学から帰って間もない二〇〇三年でしたね。
あれから二十年、日本キリスト教団出版局の編集者として何冊もの本をご一緒に作ってきた幸いを感謝しています。昨年の秋には『使徒信条 光の武具を身に着けて』を刊行できました。
二〇〇五年の『主の祈り イエスと歩む旅』、二〇一八年の『説教を知るキーワード』、そして二〇二二年の『使徒信条』。この三冊を私は勝手に「平野克己三部作」と呼んでいます。いずれも読みやすい比較的小さな本ですが、各々すばらしい作品です。
この三冊に貫くものがあると思うんです。それは何でしょうか。
ありがとうございます。確かに、この三冊は、説教者としての私にとって、ひと連なりの本であるかもしれませんね。そこに「貫くもの」とは何か。その答えとして私は、『説教を知るキーワード』の冒頭に記したことをもう一度お伝えしたいと思います。
「『説教において、もっとも大切にしていることは何ですか』。もしも、あなたが私に尋ねてくださるなら、私はこのようにお答えしたいと思います。『それは、私たちが抱いているイメージを、聖書が描き出す新しいイメージに書き換えてしまうことです』」
キリスト者というのは、この世に流通している(能力主義や自己責任といった)イメージとは異なる、もう一つのイメージを生きる民です。小さな小さなからし種を見て、その中に秘められた神の国を思い描く。そういう聖書に根ざしたイメージが、この三冊を貫くものではないでしょうか。
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先ほどお話しくださったように、私は四十歳のときに一年間、アメリカのデューク大学で説教学を学ぶことができました。帰国してすぐ月刊誌『信徒の友』に連載したものを書籍化したのが『主の祈り イエスと歩む旅』です。
当時のアメリカでは教会の衰退が明らかであり、いかにすれば会衆に伝わる説教が可能なのか、説教学者たちが懸命に考えていました(詳しくは、平野克己『いま、アメリカの説教学は─説教のレトリックをめぐって』キリスト新聞社、二〇〇六年をご覧ください)。
この最初の留学で私が学んだことが、まさにイメージを書き換える説教ということなのです。聖書が伝えようとしている新しいイメージ、新しいものの見方。それを響かせる説教とはどういうものか。そういうことをアメリカで学んできて、これを実際に文章で表現してみたのが本書です。
主の祈りを祈ることを通して、私たちは主イエスがこの世界を、そして私たちを、どういうイメージでご覧になっているかを知ることになります。
本書の最初の章「聞こえますか、主イエスの声が」には、「主の祈りが次のような祈りであったら、もっとなじみやすかったでしょう」とあり、続けて私の創作したこんな祈りを記しました。「……わたしの願いが実現しますように、わたしに一生の糧を与えてください、わたしに罪を犯す者をあなたが罰し わたしの正しさを認めてください……」。こういう祈りが私たちになじみやすい、本心から出る祈りかもしれません。
でも主の祈りはそこに立ち向かってきます。「……みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。……」。
私たちはつい自分の狭い心に主イエスを押し込めてしまいます。でも主の祈りを祈り続けることによって、私たちは主イエスの心をわが心として生きることができるようになるんです。
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『説教を知るキーワード』は、こうした聖書的イメージを伝える説教をどうすればできるのか、その手ほどきとして書いたものです。
日本の説教学の第一人者であり、私の師である加藤常昭先生の大きな仕事は、説教準備のプロセスとして、聖書からいかに黙想するかを明らかにしたことです。でもその黙想からどうやって説教を生み出すかについては、加藤先生はあまり語っていません。私はそこを解明したいという思いがあります。
エーリッヒ・フロムの『愛するということ』という有名な本がありますが、その書き出しはこうです。「愛は技術だろうか。技術だとしたら、知識と努力が必要だ」。
説教とは愛の言葉です。会衆を愛し、慈しむゆえに説教者は説教を語ることができます。そして愛の言葉である説教は、アートです。技術であり、表現です。それゆえに、説教には知識と努力が必要だし、修練を積むことで説教を習得することができるはず。
そのために不可欠な三六の項目を挙げ、本書で解説しました。
例えば、「例話」という項目があります。その冒頭には左近淑先生の説教を掲げました。左近先生は「外は雨だ。機体のドアを開いてごらん」と説教を語り始めます。これはハイジャックされた飛行機の中で、乗客が乗っ取り犯に向けて、語った言葉です。
そしてハイジャックされた飛行機と、現代世界と、哀歌の時代の三つを〈閉ざされた世界〉というキーワードで捉えていくのです。説教の冒頭に置かれたハイジャックの例話が、説教全体を統一し、詩的で強固なイメージを聴き手に残していくすばらしい説教です。
こうした具体例をたくさん織り混ぜつつ、説教の基本となる項目を解説しました。説教者にとって参考になるのはもちろん、会衆席にいる信徒の皆さんにとっても、説教とは何をする業なのかを知る面白い本だと思います。
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『使徒信条 光の武具を身に着けて』は、コロナ下で『信徒の友』に連載し、ウクライナの戦火の報を聞きながら書籍にまとめたものです。
「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」を取り上げた章には、南アフリカで人種差別の中を希望を抱いて生きたキリスト者、ネルソン・マンデラが出てきます。その後に、こんなふうに書きました。「あなたの教会にも、恨みと復讐、絶望と沈黙を強いられて当然のような状況の中で、まるですでに新しい世界が訪れているかのように、なおも何ごとかを希望しながら、信仰と希望と愛に生きている人たちがおられるでしょう?」。
この世界は「罪と死と悪魔の力」によって支配されているかのようです。でも私たちは、聖書の最後に記されたキリストの言葉を知っていますね。「然り、わたしはすぐに来る」。そして私たちは使徒たちと共に、世界中の人々と共に歓呼の声を挙げます。「アーメン、主イエスよ、来てください」。
キリスト者が礼拝ごとに口にする「かしこより来りて……」には、こういう鮮やかなイメージが込められています。世に使徒信条の解説書はたくさんありますが、本書の特徴はやはり、このようなイメージの豊かさに注目したところにあるでしょう。
私たちの教会に、使徒信条が伝える、聖書のイメージによって生きている人々がすでにいます。それを示すために本書には有名無名を問わず色々な人々が出てきます。それを読みつつ、自分もまた「何ごとかを希望しながら」同じイメージに生きている神の民なのだと思い出してほしいのです。
使徒信条は信仰者の「光の武具」。これを身に着けて、信仰の旅路を踏み出しましょう!
(聞き手・日本キリスト教団出版局)