傷つくことはだめなことではない
〈評者〉坂野慧吉
私にとっては、「HSP」(生まれつき「非常に感受性が強く敏感な気質もった人」)は初めて出会ったことばでした。自分自身は「傷ついた経験」もあり、「自分の傷ついた心」を感じたこともあります。でも、おそらく著者が書いている「傷つきやすい人」ではないと思っています。
著者が、「自分の心」「自分の経験」を極めて「率直に」また「あからさまに」書いていることによって、私自身の心に訴えて来るものがあることを感じます。それは著者の自己憐憫から来るものではなく、自分の内面を吐露することに意味を感じたりしているのでもなく、ただ「素直に」自分が感じたことを真実に書いているのだと思います。
最初の一から五までは、HSPとは何なのか、どういう人なのかをこの概念を最初に紹介した、エレイン・N・アーロン教授のことばを引用して説明しています。そしてHSPの長所と短所を指摘しています。
つぎに、著者は自分がHSPであることを最近受け入れるようになったと述べています。それまでは、商社マンとして頑張って来たという自負心が自分の傷つきやすさを認めることを邪魔していた、と率直に記しています。
後半の六では、「ダビデの傷ついた心の表現」としてダビデの作と言われる四つの詩篇から、死の恐怖、ひどく貶められた心、心の乱れによって呻く心、壊れた器のようになった心身を説き明かしています。そしてダビデのように、ストレートに神に訴えることによって、「驚くべき神の逆転劇」を見ることができると証しします。
さらに七~十四までは、八つの詩篇から、見捨てられ、孤独を覚え、神に祈る詩篇そして神による奇跡的な救いを経験した詩人は「恥の痛みから、神によって癒やされる」ことを表現していると言います。また不当な仕打ちに対して復讐したいという「恨み」の思いをも神に伝え、神の怒りに場所を空けなさいと勧めます。
「おわりに」の中で、著者は北森嘉蔵の「神の痛みの神学」にふれて、「痛む神との交わりに生きる幸い」を述べています。
HSPのひとだけではなく、他のタイプのクリスチャンも、この本にふれて、傷つくことはだめなことではなく、「福音」をさらに深く経験することに通じるのだと、希望を与えられるのではないでしょうか。
坂野慧吉
さかの・けいきち= 浦和福音自由教会協力牧師