心静かに神の現存を味わうための道
〈評者〉柳田敏洋
神秘思想家として知られるギュイヨン夫人は一七世紀のフランスで念禱の体験を深めた人で、本書は沈黙の祈りについての手引きである。二四章からなる本文と神秘家ファルコーニ神父の手紙、また批判に対する弁明書も掲載されている。
本書の意図は「すべての人が神を愛し、より楽しく、よりよく神に仕えるよう導くこと」であり、「私たちの内部に神を探せば、神を見つけるのはたやすい」のである。
彼女は祈りの方法として二つを紹介する。まず「黙想的読書」である。「真理について書かれた書物」(聖書など)を「二、三行」読んでは、それを消化し、「味わいが感じられるかぎり」そこにとどまる。次が「黙想」であり、先の味わいが感じられた内容にとどまり、そこで「神が心の奥に現存していることを生き生きと信じ」、「全感覚を内面に集中させ」力強く「沈潜」するのである。
そこから祈りの第二段階が説明される。それは「単純な祈り」と呼ばれる。「神の前に身を置き、心を集中させ」「敬意に満ちた沈黙のうちに」とどまり、「心に与えられたもの」を保ち、「やさしい愛情で意欲をかきたて」「打算のない純粋な愛を祈りに向け」る。これは心を沈黙させ、神の現存を感じながら、そこに静かに愛をもってとどまり続ける観想の祈りである。「単純な祈り」に伴う霊的荒みへの対処、祈りの深め方も書いている。祈りの「乾き」に対しては「愛に満ちた忍耐」をもって神の帰りを待つこと。苦しみを含む出来事を被造物の側からではなく「神の中で眺めるよう」身を委ね、神秘を深めるために「キリストの前で自己を無とする」こと、被造物からの離脱の必要も述べる。
さらに「神の現存の祈り」について様々な観点から解き明かしていく。神への愛に留まる祈りを訓練として行い、深まっていくと、やがて〈注賦的祈り〉と呼ばれる段階に至る。それは神が魂を「占拠していく」段階であり、神の現存が「ごく自然となり、それなしではいられなくなる」段階である。神の現存に至った魂は「命を与える霊によって動かされるままになり」、そうなると「活動はとても自由で、快適で、自然なものであるため、活動していないように」感じる。ここにおいて魂は「完全で全的な自由」に至る。
このような祈りは、当時、最終的に異端とされたモリノスによる静寂主義と同一視され、ギュイヨン夫人も一時獄中生活を余儀なくされる。けれども彼女はカトリックの信仰にとどまり、晩年は多くの弟子との交流を続けた。
ロヨラのイグナチオの霊操の現代的応用として上座部仏教由来のヴィパッサナー瞑想を活用している評者としては、彼女の示した沈黙の「単純な祈り」は、情報化社会の中で翻弄される現代人に心の内面に向かうよう招き、静まった心の中で神の現存を味わい、神への委ねにおける内的自由の道を示していると思う。ただ、夫人が示す「単純な祈り」は読むだけでなく経験者によるガイドが必要であろう。
日本ではギュイヨン夫人はほとんど知られておらず、評者もその一人であった。訳者の大須賀沙織氏は彼女について詳しい年譜を記している。今後、彼女の霊的著作が紹介され霊性の世界が一層豊かにされることを願っている。
柳田敏洋
やなぎだ・としひろ=イエズス会霊性センターせせらぎ所長