ほとばしる聖書への熱情と学問的精緻さ
〈評者〉左近 豊
著者のレーマーは、スイスの大学で教鞭をとった後、コレージュ・ド・フランスの教授、現在は学長も務める当代きっての聖書学者の一人である。『申命記史書』や『100語でわかる旧約聖書』などが邦訳されており、数回来日もしている。二十歳代後半にフランスの改革派教会の牧師の訓練を受けた経験もあってか、聖書を読み始めた人たちや、聖書の叙述に違和感や躓き、時に嫌悪感さえ覚える人たちの問いに牧会的に真摯に向き合いながら、あえて物議をかもす聖書箇所を取り上げて、真正面からそれらと格闘しながら、ほとばしる聖書への熱情と学問的精緻さをもって本書は著されている。
旧約聖書の神については、排他的で残忍で好戦的で復讐心に燃えて敵対するものは殲滅することも厭わない非情な「裁きの神」、とても近代以降の人権感覚とは相いれないものというイメージが付きまとう。本書は、そのような旧約聖書の神観について、聖書記述の背後にある歴史的状況や文化的環境を丁寧かつ分かりやすく解説しながら、読み手自らが今一度、旧約の神観について再考し、旧約聖書を新鮮な思いで読み直す手がかりを提供する。また副題にあるように、旧約聖書の入門的知識も身につく贅沢な書である。白田氏の訳文は翻訳であることを忘れさせるほどに滑らかである。
全体で六章からなっている。序論「人間に挑みかかる旧約聖書の神」は旧約の神の歴史的変遷(系譜)を辿る。そもそも古代イスラエルにとって一神教は本来の信仰ではなく、むしろ幾世紀にもわたって発展してきた概念であることが、旧約聖書の背景にある古代近東の政治・宗教・思想の歴史を通して明らかにされる。旧約の時代を生きた信仰の先達たちの神との出会い、葛藤と格闘の道のりが、知的興奮を伴って生き生きと読み手に迫ってくる。
以下六章にわたって「神は男性か」、「神は残忍か」、「神は好戦的な暴君か」、「独善的な神の前に人間は罪人に過ぎないのか」、「神は暴力と復讐の神なのか」、「神は理解可能か」、そして「旧約の神と新約の神」を結論に配して閉じられる。どの章も、旧約聖書を紐解く者が必ずと言ってよいほどに引っ掛かりを覚える聖書箇所が取り上げられる。キリスト教に関心を持ち始めた人には今はまだ読んでほしくないと思ったり、旧約を読み進んだ人から指摘されることの多い不快感や嫌悪感をもよおす「不都合な」聖書箇所について、本書は、護教的に神を擁護して問いを封じるのではなく、むしろそのような「ヤバい」個所そのものの語りに忠実に聞きながら、湧き上がる問いを回避せずに、聖書が証しする、生きて働かれる神ご自身と向き合うことへと手引きする。
例えば神の残忍さについて論じる本書の二章で著者は、「聖書の神が持っている理解不能な側面を否定しようとする誘惑に負けてはならない。私たちがここまで扱ってきた(神の残虐さを語る)テクストはそのことをはっきりと語っている」と述べて、真正面から聖書テクストと四つに組むことを促し助ける。そして、神の残忍さに直面したヨブを例に、神に逆らってでも叫び、大胆さをもって対峙し、転じて自らの判断基準さえ問われるような、異質な存在である神との出会い、そしてその関係のダイナミックさに気づかせるのである。
左近豊
さこん・とむ=美竹教会牧師・青山学院大学教授