悔い改めるとは、自分自身と自分の罪から離れ、神に立ち帰ることです。ですから、神を信じることとそのものと深く結びついたことであり、わたしたちの信仰生活の土台をなしています。わたしたちは悔い改めて洗礼を授けていただき、悔い改めをもって礼拝をささげ、また聖餐にあずかります。わたしたちの日々の歩みもまた、悔い改めの歩みです。マルティン・ルターのいわゆる「九十五箇条の提題」の第一提題を思い出します。
「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めなさい……』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである」(『ルター著作選集』教文館)。
それほど大切なことなのに、悔い改めるとはどういうことなのか、わたしたちはいつもわからなくなります。自分で自分を裁き、自分の力で自分をきよめようとする誤りと、どうせ自分にはできないのだと言い訳をして、悔い改めなしに生きてしまう誤りとの間で、途方に暮れています。D・ボンヘッファーが「安価な恵み」について語った言葉を胸に刻みたいと思います。
「安価な恵みは、悔改め抜きの赦しの宣教であり、教会戒規抜きの洗礼であり、罪の告白抜きの聖餐であり、個人的な告解抜きの赦罪である。安価な恵みは、……生きた・人となり給うたイエス・キリスト不在の恵みである」(『キリストに従う』新教出版社)。
悔い改めを改めて学び、自分のこととして受け取りたいと思います。
近藤勝彦『しかし、勇気を出しなさい』
悔い改めは、ただ後悔したり、改善をはかったりすることとは違います。「改心」とも違います。悔い改めとはそもそもどういうことなのかを、まず聖書から聞きたいと思います。
旧約聖書で「悔い改める」ことを指すもっとも重要な語は「シューブ」です。「出発点に戻るために向きを変える」という意味です。聖書では「立ち帰る」などと訳されます。旧約聖書の「シューブ」については、W・ブルッゲマン『旧約聖書神学用語辞典』(日本キリスト教団出版局)の「悔い改め」の項目で学ぶことができます。
新約聖書で「悔い改め」と訳されているのは「メタノイア」ですが、聖書ではこの語にも「シューブ」の意味合いが込められています。新約聖書の「悔い改め」についてたいへん教えられるのは、J・シュニーヴィントの「イエスは復帰ということをどのように理解されたか」です。『放蕩息子』(新教出版社)に収録されています。(残念ながら現在品切れです。同じ主題の論文「福音的メタノイア」は『旧新約聖書の一つの使信』新地書房に収録されています。出版社がなくなったため、こちらも入手不能です。)
シュニーヴィントは、「悔い改め」とは神に立ち帰ることであることを明確にし、さらに、主イエスが近づいてきてくださり、罪の赦しへ、永遠の救いへ、主イエスと共に生きることへと招いていてくださるのだから、悔い改めの呼びかけそのものが喜びの知らせなのだと語ります。
旧新約聖書を貫いて、神はわたしたちに呼びかけ、ご自分のもとに帰るようにと招いておられます。神に帰ることは、神なしに生きることから決別し、神にお従いして生きることです。信じることは生きることの全体に現れ、福音は倫理となって形作られます。説教において倫理的な勧めをするのではなく、福音を告げることに徹しながら、福音そのものが倫理的な力をふるって聴き手を生かすことを目指しているのが、説教集『しかし、勇気を出しなさい』です。本書の中には「悔い改めとは」と題する説教も収められていますが、この説教だけでなくどの説教も、聖書的な意味での悔い改めが起きることを目指して語られています。
(説教では、カール・バルト「回心」もお勧めです。『カール・バルト説教選集12』[オンデマンド版]日本キリスト教団出版局、所収です。)
ジャン・カルヴァン『キリスト教綱要(改訳版)第3篇』
聖書が語る「悔い改め」の意味を確かめ、自分自身への神の呼びかけを受け止めました。その上で、「悔い改め」とは何であるかについて、さらに考察を深めましょう。悔い改めはわたしたちの救いの歩みの一部です。ですから、教義学のテーマの一つです。「ハイデルベルク信仰問答」においては、第三部「感謝について」の冒頭、問88から問91で扱われています。「悔い改め」についての章を設けている、牧田吉和『改革派教義学5 救済論』(一麦出版社)など、教義学の書物や事典を繙くこともできましょう。
ここでは、『キリスト教綱要 第3篇』を挙げました。その第3章から第5章まで。とくに第3章です。カルヴァンは第2章で「信仰」について語ったのち、信仰と深く結びつき、信仰から生まれてくるものとして「悔い改め」を取り上げます。そして、「悔い改めとは、神への真摯で厳粛な恐れから発するわれわれの生の真の転換であって、我々の肉と古き人に死ぬことと、御霊によって新しく生きることとから成る」(5節)と定義しました。
その際、「転換」とは、魂そのものが新しくされ、心を尽くして神を愛するようになることであり、「神への畏れ」とは、自分の罪を知り、罪を悲しみ、神の裁きのもとに立つこと。「新生」とは、キリストにあずかって再生されることです(6~8節)。こうしてみると、悔い改めとは、神の救いを受け取ることそのものだとわかります。悔い改めは、洗礼において与えられたものであり、聖化の歩みの中で神の賜物として与えられ続けるものなのです。
カルヴァンはさらに、悔い改めを引き起こし、助けるものとして、御言葉から七つを挙げます。憂い、弁明、憤慨、恐れ、愛慕、熱意、罪を責める心です(15節)。悔い改めが自分の努力や感情にならず、反対に、賜物なのだからと、自分では何もしないことにもならず、御言葉に促されつつ、悔い改めを実際に生きるようになるために、よく耳を傾けたいと思います。
カルヴァンは「律法的悔い改め」と「福音的悔い改め」を区別しました(4節)。福音的悔い改めを引き起こすのは、神の恵み深さです。神が救いの神であり、キリストが罪の赦しのみわざを成し遂げてくださったからこそ、わたしたちはこの神に帰り、まったく新しくしていただくことができます。
ヘンリ・ナーウェン『いま、ここに生きる』
悔い改めについての理解を深めた上で、改めて悔い改めに生きることを目指しましょう。説教においても牧会においても、悔い改めがきちんと位置づけられなければなりません。
W・H・ウィリモン『異質な言葉の世界』(日本キリスト教団出版局)は洗礼の光に照らして説教を考察します。そして、説教は、今のままであろうとする聴き手をつまずかせ、悔い改めを引き起こす言葉であるはずだと語ります。たいへん重要な指摘です。
牧会についての古典的名著であるE・トゥルナイゼン『牧会学Ⅰ』([オンデマンド版]日本キリスト教団出版局)には、「牧会における福音主義的な悔い改め」と題する章が設けられています。牧会は聖化と訓練に向かう福音の伝達ですから、悔い改めに至るものなのです。
説教や牧会に位置づけられるだけでなく、何よりもわたしたちの信仰生活そのものが、いつでも神に立ち帰り、キリストの十字架によって担われ、聖霊によってきよめられるものでありたいと願います。そのことを具体的に捉え、また生きるために、たいへん助けになり、導きとなるのが、『いま、ここに生きる』です。(『すべて新たに』[あめんどう]など、ナーウェンの他の多くの著作もそうでしょうけれど。)
一つ一つの文章は2頁か3頁のごく短いものです。その一つ一つにおいて、今ここで、わたしたちの考え方も、感情も、価値観も、そして生きる形の全体も、神に向かって方向転換させられます。福音を生きるとはこういうことなのだと知らされます。
小泉健
こいずみ・けん=東京神学大学教授