民族の精神は、最初に詩にあらわれると聞いたことがあります。万葉集、ラーマーヤナ、オデュッセイア、カレワラ等、世界各地に、その民族を代表する叙事詩や歌があります。日本にもゆたかな詩歌の伝統が息づいています。
詩に興味をもつようになったのがいつ頃か、はっきりと思い出すことは出来ません。家族で百人一首に興じたからか、父の書架にあった黄ばんだ三好達治や萩原朔太郎の詩集を手に取ったからか、高校の授業で漢詩を暗唱させられたからか、いつのまにか詩歌に、特別な思いを持つようになりました。
今回は、詩とユダヤ民族の精華と言ってよい詩編にふれるための三冊を紹介します。
茨木のり子「詩のこころを読む」
詩のジャンルでいえば現代詩を扱っています。岩波ジュニア新書のなかの一冊で、自身すぐれた詩人であった著者が選びぬいた詩のかずかずに愛情あふれる言葉がそえられ、多くの詩人へと導いてくれました。工藤直子、黒田三郎、金子光晴など大好きな詩人となりました。その後も新しい出会いを求めていろいろな詩のアンソロジーに手を出しましたが、入門篇にして決定版との気持ちは強くなるばかりです。
ところで詩とはなんでしょうか。どのように定義すれば詩の本質を言い表したことになるでしょう。茨木のり子は「言葉が離陸する瞬間を持っていないものは、詩とは言えません」と述べていて、これは言い当てていると思います。それを便所掃除をうたった詩をあげて説きあかす箇所はこの本の白眉と思いますので、ぜひご一読ください。
そしてわたしは牧師になってしばらくして、この定義は説教にも当てはまると思うようになりました。言葉が離陸する瞬間を持っていないものは説教と言えないのではないか。それは解説や意見表明にすぎず、信徒を神の恵みのご支配へと離陸させる言葉を取りついでいるかと、みずからを顧みさせられています。
もうひとつ、この本に述べられている知見でナルホドと頷かされたのが、「つづまるところ、詩歌は、一人の人間の喜怒哀楽の表出にすぎないと思うのですが」とことわって、日本の詩歌は「哀」において数多くの傑作を生み、「喜」や「楽」にも見るべきものがあるが、「怒」の部門が非常に弱く、外国の詩にくらべるとそこがアキレス腱と思われる、とした箇所です。わたしたちの国民性を思わされるではありませんか。そしてこの「怒」の部分に大胆に踏み込んでいるゆえに、わたしたちに戸惑いをすら与えるのが旧約聖書におさめられた詩編ではないでしょうか。古今東西、詩編についてはさまざまな本が出版され、汗牛充棟のありさまですが、この「怒」にまつわる論考が近年、目につくようになりました。
W・ブルッゲマン「詩編を祈る」
詩編は全一五〇篇、律法・預言・諸書からなるユダヤ教正典においては諸書の部の巻頭におかれています。この構成は「律法と預言者」に示された神の言葉と御業への応答として、詩編が位置づけられていることを意味します。ブルッゲマンはアメリカ旧約学の泰斗であり、多数の著作があります。すぐれた聖書学者である著者が、神の御前に立つ一人の信仰者として、詩編を、わたしたちの信仰生活に取り戻そうとする姿に励まされます。「詩編を信仰の行為として、礼拝の行為として、祈りの行為として受け入れる」ことを目的とする本書は、深い学識に裏打ちされ、詩編を祈りとしてもちいる際の方向性と問題を指摘します。
教会員が、祈祷会のあとでポツリともらした言葉が忘れられません。「裃(かみしも)を着たような祈りしかできない。祈る前に、こんなことを祈ってはいけないと自分でセーブしてしまう」と言ったのです。こんなことを祈っては不謹慎と自己規制し、結果、あたりさわりのない祈りしか出来ずに、祈りから遠ざかってしまう経験はだれでも覚えがあると思います。しかし、順境の時はいざ知らず、逆境に叩き込まれた時、助けを求めずにおられるでしょうか、不治の病を告げられた時、犯罪に巻き込まれた時、突然のリストラ等、青天の霹靂のようにおとずれる人生の不条理に打ちのめされる時、わたしたちは言葉を失います。そこに語る言葉を与えてくれるのが詩編です。ブルッゲマンは「我々の経験を詩編に触れさせる」ことを提唱します。人生におとずれる混沌や無秩序、逆境における方向喪失の現実、生々しい人間の現実のなかで経験した事柄を「巧みな言葉と情熱をもって聖なる方に敢えて語りかける声」を詩編が与えてくれるのです。それは行儀のよいわたしたちの祈りとは対極にある無遠慮で、荒々しい抗議、不満、嘆願、そして報復をもとめる祈りの言葉となってあらわされます。このような「対話の勇気」をもって祈る時、それはわたしたちを、新しい神との関係にいざなうものとなります。詩編のなかに表出する怒り、さらに報復の感情はあまりにユダヤ的であるために扱いにくく敬遠されがちです。ブルッゲマンは「『ユダヤ人の領域』にいるキリスト者」「復讐―人によるものと神によるもの―」という章を別にたて、ユダヤ教とキリスト教の信仰のニュアンスの違いを安易に和解させることを戒めつつ、この問題にも切り込んでいます。
飯謙ほか「聖書協会共同訳 詩編をよむために」
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聖書協会共同訳
『詩編をよむために』
・飯謙、春日いづみ、石川立、石田学、西脇純:著
・日本聖書協会
・2021 年
・A5 判160 頁
・1,210 円
2018年に発行された「聖書 聖書協会共同訳」の詩編翻訳に携わった五人により一書が編まれました。詩編の構成や文章技法、復讐の詩編や、詩編を日本語で歌うことなど、バランスよく目が配られ、適価で、聖書研究や、贈り物にもよい入門書です。
そのなかの第四章「天を仰いで神に歌う―悲しみ、嘆き、報復の詩がなぜ詩編にあるのか」(石田学)は必読です。呪いや報復を願う言葉をもつ詩編の重要な意義について、「深い悲しみ、嘆き、報復への願いこそは、人が最も神を必要とし、最も切実に神に祈る時」であり、「そうした体験を信仰から切り離し、信仰の詩から取り除いてしまうとしたら、その信仰は全存在的なものではなくなる」という指摘は正鵠を射るものです。
エルサレム考古学公園ビジターセンターの歴史パネルを見て唸ったことがあります。カナン時代(~3300)、イスラエル時代(~1066)をへて、バビロン捕囚(~586)以降はペルシア期、ヘレニズム期、ローマ帝国期、ビザンチン帝国期、初期イスラム期、十字軍期、マムルーク期、オスマン帝国期、イギリス期と切れ目なくつづき、イスラエル共和国(~1948)となっていたのです。これはエルサレム定点観測の記録であって、はたして民族の歴史なのだろうかと考え込みました。中国にも元(モンゴル族)や清(満州族)の支配の時代がありますが、イスラエルは約二千五百年間、異民族支配下なのです。旧約聖書に記されるイスラエルの歴史は神の民の滅亡の記録ですが、その後の歴史においても民族の嘆きは絶えることなく続いたのです。征服者バビロンへの呪詛と報復を求める「幸いな者 お前の幼子を捕らえて岩に叩きつける者は」(詩137篇9節)という声は戦時下の暴力にさらされた人々の主観的な真実です。こうした深い嘆きや悲しみはすぐに癒やされることはありません。体験した苛酷な現実を受け入れるには共感による分かち合いや、嘆きの声、熱い涙、のろまな時のひと打ちを要します。不条理を神の摂理のなかに位置づけ、受け入れるには聖なる諦念を必要とするのです。これらの報復の詩編をもちいることを通して、人々は悲嘆のプロセス(グリーフワーク)を経験しているという石田学の指摘は見逃せません。詩編は個人の悲劇や民族の歴史的破局をも乗り越える力を与え続けてきたと言ってよいでしょう。
最後に、軋みの増す国際情勢や気候変動による災害の多発する現状を思いますと、伝統的なキリスト教の枠におさまりきれない深い悲しみ、嘆き、報復の詩編を、わたしたちの信仰生活に取り戻すことは、牧会者にとって喫緊の課題であると思われてなりません。
横山良樹
よこやま・よしき:日本基督教団半田教会牧師、名古屋学院中高学院長