2020年6月30日の「香港国家安全維持法」(国安法)可決・施行から、一年が過ぎました。この間、民主派の人々の逮捕・起訴が相次ぎ、香港から海外への移住者が後を絶ちません。こうした事態は深刻さを増していますが、日本ではコロナや五輪のニュースの陰に隠れてしまい、香港関係の報道がかなり減ったように思います。
とはいえ、「雨傘運動」(2014年)、「逃亡犯条例改正反対運動」(2019年)、「国安法」(2020年)など一連の出来事を通して、この数年で日本における香港への関心度・注目度は、以前と比べればかなり高くなったことは間違いありません。香港についての書籍も相次いで出版されるようになり、今年初めには拙編訳書『香港の民主化運動と信教の自由』(教文館、2021年)も出版されました(五月末に重版!)。『本のひろば』編集委員会より「香港のキリスト教を知るための三冊」の紹介の依頼があったのも、香港への関心と祈りの輪がより一層広がるようにとの編集委員会の意向があるものと受け止めています。
しかし、「香港のキリスト教」そのものを取り上げた日本語書籍は拙編訳書以外にはないため、ここでは、香港のキリスト教の〈背景・文脈〉を知るのに役立つ三冊を紹介させていただきます。
野嶋剛『香港とは何か』
まず第一章で香港の概説と執筆動機が紹介されていますが、著者が大学生時代に香港経由で中国大陸に聖書を運ぶ活動に参加した体験談から記述が始まっているのは、とても興味深い点です。香港という都市が、キリスト教宣教においても役割を果たしてきたことを物語るエピソードと言えるでしょう。
第二章から第四章で香港人アイデンティティー、雨傘運動(2014年)、逃亡犯条例改正反対運動(2019年)について、一連の流れがわかりやすく説明されています。
第五章は、香港映画からみた香港史というユニークな視点から解説がなされ、映画好きの方には特にお勧めの一章です。
第六章から第八章は、日本・台湾・中国大陸のそれぞれの視点から見た香港が論じられています。日本が、中国大陸・台湾・香港と、政府レベルでも民間レベル(キリスト教会の交流も含め)でも、どのようにバランスをとりながら関係を築いていくのかは非常に難しい課題ですが、まずはそれぞれの異なる視点・立場を理解しておくことは必要不可欠です。
そして最後の第九章「香港と香港人の未来」では、国安法をめぐる問題と、東アジアの中での香港、米中関係の中での香港などさまざまな角度から、今後考え得るさまざまなシナリオについて論じられています。
「あとがき」の中で著者は、国安法の浮上により「本書のタイトルを『香港とは何か』から『香港に希望はあるのか』や『香港の絶望』に変えようと思った」と述べつつ、それでも「香港は死なないし、終わらないと信じたい」という強い信念から、タイトルを変えなかった思いを綴っています。
ジョン・M・キャロル『香港の歴史─東洋と西洋の間に立つ人々』
訳者による「あとがき」で指摘されているように、日本にはそれまでも香港研究の蓄積がありましたが、客観的に通史を書くことは非常に困難な作業であり、同書の出版以前には『香港の歴史』と題する専門書は日本で刊行されていませんでした。従来の香港史の研究には、①香港をイギリス植民地の一部として叙述する方法、②中国史の一部として描く研究、③香港の独自性を主張する「香港史」志向の研究の三つの傾向があり、これらのバランスをとることは容易ではない中、キャロルの本書はこれら「三つの視角」を良く考慮し、多角的に香港史を描くことに比較的成功している、と訳者は指摘しています。
本書には、19世紀の中国宣教のパイオニアであるロバート・モリソン(Robert Morrison, 1782-1834)やジェームズ・レッグ(James Legge,1815-1897)、1949年以降に中国大陸から香港に移住し、香港の貧困問題に取り組んだ宣教師・教育家・社会活動家のエルシー・トゥ(Elsie Tu,1913-2015, 中国語名=杜葉錫恩、英語本名=エルシー・エリオット〔Elsie Elliot〕)、また80年代の政治改革に積極的に参与した香港キリスト教工業委員会(Hong Kong Christian Industrial Committee)への言及が見られます。著者が香港で幼少期から青年期を過ごしたことは先に紹介しましたが、実は彼の父親ユーイング・W・キャロル(Ewing W. Carroll, 1937-, 中国語名=高佑恩、Bud Carroll の愛称で知られる)はアメリカ合同メソジスト教会から香港に派遣されていた宣教師でした。また彼はあるインタビューの中で、自身の博士課程当初の研究関心は中国における宣教師の歴史だったとも語っています。同書の中にキリスト教への目配りがなされているのは、著者のこうした背景が影響しているのかもしれません。イギリス植民地だった香港の歴史を理解する上で、キリスト教の影響はやはり無視するわけにはいかない視点と言えるでしょう。
さらに本書が、日本の香港研究を牽引する倉田明子氏(東京外国語大学総合国際学研究院准教授)と倉田徹氏(立教大学法学部教授)という最適な訳者によって翻訳されたことも、指摘しておかねばなりません。お二人の共編『香港危機の真相』(東京外国語大学出版会、2019年)や、倉田徹・張彧暋共著『香港─中国と向き合う自由都市』(岩波新書、2015年)、吉川雅之・倉田徹共編『香港を知るための60章』(明石書店、初版2016年、第四版2019年)、倉田徹編『香港の過去・現在・未来』(勉誠出版、2019年)なども、香港を知るためには欠かせない本です。
渡辺祐子監修『増補改訂版 はじめての中国キリスト教史』
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『増補改訂版 はじめての中国キリスト教史』
・渡辺祐子:監修
・石川照子、桐藤薫、倉田明子、松谷曄介、渡辺祐子:著
・かんよう出版
・2021年刊
・四六判254頁
・2200円(税込)
香港史を書くのには「イギリス植民地」「中国史」「香港の独自性」という「三つの視角」のバランスが難しいことについて先に触れましたが、このことは「香港キリスト教史」の叙述においても同様です。「中国キリスト教史」の中に「香港キリスト教史」をどのように位置づけるかは決して自明のことではなく、筆者自身も悩むところです。
中国大陸と香港は政治・経済・文化等の面で切り離せないのと同様に、両者のキリスト教を「分離」するわけにはいきませんが、しかしそれらを「区別」して考えることが不可欠です。中国大陸のキリスト教と香港のキリスト教は、「区別されるが分離されない」ことを念頭に置きながら、同書を読んでいただくと良いでしょう。
以上、三冊の本を紹介させていただきましたが、これらはいずれも、「香港のキリスト教」に焦点を当てた書籍ではありませんが、「香港のキリスト教」が置かれている背景・文脈を理解するのには必読書です! これらの書籍を手に取っていただくことを通して、香港への関心と祈りが広がれば幸いです。
最後に。本稿を書きながら、『香港のキリスト教』あるいは『はじめての香港キリスト教史』と題する日本語の概説書・一般書がやはり必要なのではないか、と改めて思わされました。
松谷曄介
まつたに・ようすけ=金城学院大学宗教主事・准教授/日本基督教団教務教師