キリストの教会を健やかに建てあげる説教
〈評者〉坂井純人
本書は、数多ある新約聖書の説教集の中でも、希少なコリントの信徒への手紙二の本格的な講解説教集である。コリントの信徒への手紙二の説教集が少ないことは、日本の教会の講壇の務めに生きる説教者にとって、課題と筆者も感じてきた。しかし、この状況に新たな光を照らす説教集を世に問われた、畏友、袴田牧師の英断に感謝をするものである。何よりも、同牧師を用いて、混迷の時代に呻く、現代日本の教会に、非常に鮮明な御言葉の光を注いで下さった生ける主の御名を心から崇めたい。
この説教集からは、聖書原典における丁寧なワードスタディと神学的教理史的考察が明晰な論理の背景にあることが明確に伝わって来る。しかし、同時に簡潔な言葉で、信仰者の現実の中で、神の御言葉に向き合うような問いと答えへの適用が、どの説教にも散りばめられている。生ける主の御言葉を、日々の信仰生活に活かす為のカテキズムの適用にも習熟した袴田牧師の賜物が、ここにも発揮されている。本来、講解説教とは、御言葉の意味を問い、御言葉の示す福音をして、信仰者を自発的な主への感謝の応答に導き、「主の民、主の教会を建てあげる」説教であろう。一回一回の説教が、全て、今、ここで生きる会衆の具体的な信仰の姿勢を問い、養い、希望の内に建てあげる内容となっている点は、見事というほかない。
袴田牧師の説教の中で繰り返し用いられる言葉がある。それは、「健全に」、「健やかさ」、という表現である。例を挙げると「パウロの願望は、唯一つ、信徒たちが霊的に建てあげられることでした。(中略)。それは、信徒たちの群れである教会が、健全に建てあげられるということでもあります」(本書二四〇頁)。「私たちも『キリストにある者』として、パウロと同じ基本姿勢が求められています。人の前ではなく、神の御前に生きること。キリストの体である教会の一部として、体全体の健やかさのために生きること」です、とある(二四六頁)。信仰を個人主義的に捉え、神を観念的に語ろうとする危うさに対し、神と人との唯一の仲保者キリストに結ばれた福音の喜びが生む、具体的な生き方を、袴田牧師は、次のように明言する。「神の御前に生きることは、教会に生きることです。それゆえ、私たちもまさしく、キリストの体なる教会を造りあげるために召されています」(二四七頁)と。
袴田牧師の説教は、神の召しに殉じた使徒パウロの生き方を浮かび上がらせ、その姿を通して、パウロが結ばれていた主イエス・キリストへと一人一人の聴き手、読み手を導く説教である。御言葉によって示される主イエス・キリストのみに、人々の魂を向けさせる語りは徹底している。これは、説教者自身が、主の御言葉に仕える喜びと主の御言葉の力に徹して信頼しているがゆえの「健やかな」姿勢の現れであろう。この説教集を通して、キリストの福音により健やかな教会形成への召しに与る喜びと希望へと、読者は導かれるであろう。
坂井純人
さかい・すみと=日本キリスト改革長老教会東須磨教会牧師、日本福音主義神学会西部部会理事長、神戸神学館教師