『科学を否定する人たち─ ─なぜ否定するのか?我々はいかに向き合うべきか』

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『科学を否定する人たち──なぜ否定するのか?我々はいかに向き合うべきか』
・ゲイル・M. シナトラ、バーバラ・K. ホファー:著
・榊原良太:訳
・ちとせプレス
・2025 年
・四六判
・312 頁
・3,080 円
私たちの信仰においては、古い記録やテキストが典拠として用いられており、その中には現代の科学としては非合理的であったり、立証しえない記述も含まれています。それを信仰の糧とすることは私たちにとって必要なことであり、また社会や世界において、侵されるべきものではありません。しかし、現実の、この現代社会において私たちが生きていく上では、ある種の折り合いをつけていくことや心・信仰と現実への適応を使い分けることが必要となってきます。
科学が発展したことによって、私たちの生活は格段に健やかで平和なものになりました。たとえば、昔であれば、原因がわからず治療が不可能で死を待つしかなかった病気が医学によって完治し生きながらえることが可能になったこと。土や気候、植物についての分析が進んだことによって、得られる食料が増え、貯蔵の技術も向上し、私たちは安定的に食事をすることができるようになったこと。現代社会だからこその苦悩や地域の差、社会問題もあり、すべて完璧に整っているわけではありませんが、現代日本において一般的には基本的な生存の安寧が、千年2千年前よりは各段に向上しているといえます。 しかし、その一方で、進んだ科学は素朴に目に見える形や理解できることばかりではありません。車輪の発明などは、それを思いつかなかった人たちであっても、担いで持ち上げるより転がした方が楽だな、ということが目で見てわかるでしょう。
でも、目の前に白い粉があった時、熱を下げるものなのか、お腹を壊してしまうものなのか、熱を下げるけれど副作用として少しお腹の調子が悪くなるものなのか、私たちは、それを個人で理解したり証明したりすることは、多くの人ができないことです。お医者さんから処方箋をもらい、製薬会社が作ったものを薬剤師さんに処方してもらう。それら一連のことを暗黙の了解として、私たちは科学の成果である薬を受け取って治療をします。では、これらのことをいちいちすべて自分で確認しようとしていると身がもたない。
それで言えば、私たちはふだん理性的に物事をとらえ、判断し、行動していると思っていても、「大丈夫(だろう)」という思い込みの上で暮らしているとも言えます。思い込み、と書くと少し語弊があるかもしれません。いきなり妄信をしているのではなく、その「大丈夫」に至るまで、私たちは生まれた時からその社会に身を置いて見たり体験して学び、教育を受けて、私たちが共有している社会的なインフラや文化、その根本たる科学的思考は信に足ることであることを多くの人と理解・確認しあい、共有していることを身に着けているのです。科学はいまだ発展途上であり、解明されていないこともあるし、時には定説となっていたことが覆されもする、「正しいから信じられる」ということでもありません。本書の第1章では「一般の人々が科学を信を熱心に支持していたり、科学では説明しきることのない信仰を持つことは、それぞれ尊重されるべき文化です。頼すべき理由は(中略)科学が集団的な営みであり、社会的な活動であるという事実にこそある」とナオミ・オレスケスの言葉を引いています。
ですから、科学に対して疑いの目をもつ、ということは健全なことでもあります。よく、フェイクニュースなどについて「自分で考えることが大事だ」と言われたりします。「科学を否定する人たち」は、きっかけは真面目な疑念であったり、不安を覚えたことを調べようとした結果、誤った知識のフィルターバブルに陥ったり、入り口はそれぞれですが、むしろ、自分でよく考える人たちであることも多く、それは決して軽んじてよいものではありません。
本書では、科学を否定する人たちの社会的分析を中心として、何度も「私たちにできることは?」という節が付されます。
人がその個人において、たとえばネッシーを信じているだとか、ファンタジー
しかし、科学を「集団的な営みであり、社会的な活動」として広く社会基盤をともにし、その上に安寧を築いている以上、私たちは、科学に対して一定の共通理解を持ち続ける(疑義はなくすのではなく、健全な検証をともなうものとして)ことを、隣人たちと共有する努力をし続ける必要があります。そのことを本書は真摯に提案してくれます。
『ジーザス・イン・ディズニーランド』

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『ジーザス・イン・ディズニーランド』
・デイヴィッド・ライアン:著
・大畑凜、小泉空、芳賀達彦、渡辺翔平:訳
・新教出版社
・2021 年
・四六判
・336 頁
・3,850 円
近代化、科学を基盤とする社会の伸張によって、宗教への帰属が減少してきているのは、キリスト教だけでなく、多くの国・宗教でも起きています。ただ、私たちが人としての苦悩を背負いながら生きていく上でスピリチュアルな悩みや問題はなくなったわけではなく、そうしたものが、さまざまなものへスライドしています。それは単純に信仰の対象が他のものへ移ることもありますが、本書においてはディズニーランドが消費主義のなかで宗教的営為を包括していくものとして、そうした「ディズニフィケーション」「ディズニーゼーション」(おおざっぱには両者ともディズニー化する社会を指しますが、二つは使い分けられた概念として論じられているため、詳細は本書にてご確認ください)された現代社会、その現代社会におけるキリスト教及びキリスト教的なスピリチュアリズムを論じています。
著者のデイヴィッド・ライアンは社会学者として、監視社会論を専門に、ポストモダン論の論者としても知られる研究者です。彼自身がキリスト教徒であり、この本ではそうした彼自身の信仰からくる思想も顔をのぞかせています。この「ディズニー」は消費社会の象徴であり、実際に現在の世界で一番大きな影響力をもっているコンテンツ群です。本書のタイトルは、そのディズニーの本拠地であるカリフォルニアのディズニーランドで開催された伝道師・グレッグ・ローリー氏による宗教イベントに由来します。宗教的な主張とも矛盾が感じられ、奇妙にも思われる組み合わせですが、そうした「奇妙」と思ってしまう世俗化論(宗教社会学の語として、宗教が近代社会において衰退していくこと)に疑義を提示していきます。
実際に、日本でも冒頭に書いたように、宗教に帰属して、信仰をベースに生活する人の人数は減っています。お墓じまいはその流れのひとつで、年間で数万、十数万件にものぼるそうです(厚労省による「改葬」の調査による)。
その一方で、クリスマスに教会へ訪れる人は(悲しいことに)多くありませんが、その関連市場は手堅く1兆円に近づく勢いがあり、年末年始の神社仏閣へのお参りは、約9千万人(警察庁の集計データ)だそうです。さまざまな「宗教に近接する行事や行為」は非常に一般的です。それでも、特に後者などは直接宗教施設へ訪れお賽銭を献金もしますが、新たに信仰の生活に入る人はまれです。そして、バレンタインデーに加え、近年ではハロウィンも、日本では(西洋的な、ぐらいのことが)キリスト教っぽい行事として定着してきています。そして、そのどちらでもディズニーのキャラクターたちはいきいきと活躍をしています。
本書において、著者も旧来的な帰属だけではなく、モダンな生活を送るなかにも宗教心はあると、宗教社会学の枠組みを丁寧に論じながら喝破します。そこで、そういう何でもありなんですよ、で投げ出すのではなく、ライアンは「信仰の未来」を、予言するのではなく、自身の信仰心をのぞかせながら、自身に、そして私たちにできることとその希望を語ります。
私たちは科学が支える社会の恩恵を享受し、そのことに感謝しながら、誤った科学理解は避けつつ、しかし科学では語りえない信仰を維持し、伝道をしていく。また、頭の痛いことに、ディズニーとの隣接は文字通りかわいいものではありますが、それこそ社会や人権を脅かす「偽の科学」や同じ信仰から出発したはずの「科学を否定する信仰」にも立ち向かわなければなりません。使徒パウロの苦難ほどではありませんが、私たちは苦難を乗り越え、偽使徒たちから信仰を守り、科学を守らなければいけません。
『宗教の本質─ ─人間にとって宗教とは何なのか』
評論やエッセイなどで人気の僧侶とキリスト者の二人が、それぞれの信仰をベースに交わした往復書簡集です。ワンテーマではなく、いくつかのキーワードを元に応答することで、一見すると融通無碍に言葉が交わされているようにも思えますが、異なる信仰を持つふたりが意見を交わすことでその共通点と差異が、普遍の「宗教の本質」に迫る構成となっています。
科学や社会の在り方はこれからも進歩・変化します。私たちはその中で信仰を形ではなく、現実の拒否でもなく、本質を見極め、保ち続けなければなりません。













