主の御名をあがめます。
MAROです。
人生はよく旅にたとえられます。そして僕たちクリスチャンが歩む信仰生活もまた旅にたとえられます。特に日本で暮らす日本人クリスチャンにとってのこの旅は、それまで慣れ親しんだ慣習を離れて異国を一人旅するような難しさと楽しさがあります。一方で、旅というのは往々にして観光旅行で終わってしまうものでもあります。もちろん、初めから観光目的の旅であればそれで構わないのですけれど、観光旅行をしただけでは、本当にその土地のことを知ることはできませんし、自分自身が得られる経験もある程度で頭打ちになります。まして、信仰の旅はけっして観光旅行で終わっていいものではありません。
旅と言えば、僕は20年ほど前にアメリカのボストンで2年半、音楽を学ぶために留学生活を送ったのですが、今思えばこの旅は今もなお続いている信仰生活の「先に見せられた縮図」であったなと思います。それまで海外旅行もしたことのなく、また一人暮らしもしたことのなかった僕にとってそれは「初めての海外で初めての一人暮らし」という、二重の「初めて」が重なったエキサイティングな体験でした。そこでまず役に立ったのは観光旅行用のボストンのガイドブックでした。それを見ればボストンの街の概要や気候、主な建物やそこへの行き方などが書いてありますから、まずはこの本に首っ引きで旅を始めることになったわけです。
アリスター・マクグラス『信仰の旅路』
信仰の旅にも、そんなガイドブックがあります。そういった本は他にもたくさん出版されているでしょうが、僕が信仰生活の初めの頃に読んで、クリスチャンとして生きる人生の概観を得たのはアリスター・マクグラスの『信仰の旅路』(いのちのことば社)です。この本はまさに「旅路」をテーマとしていて、これから歩む信仰の道が「旅」であることを、ページをめくる度に実感することができます。この旅の目的を知ることもできますし、そこへの道筋も知ることができます。その上、アンセルムスやルター、ウェスレー、ボンヘッファーといった、信仰の旅の上での「ランドマーク」も多々紹介されていますから、右も左もわからずにこの「信仰」という街に飛び込んだとしても、大きく道に迷うこともなく進むことができるでしょう。そしてこれから始まる、あるいはすでに始まっている旅が、けっして観光旅行ではなく、明確な目的のある旅なのだということを、大きなワクワク感と共に実感できることでしょう。この本がもたらしてくれるワクワク感は決して派手な分かりやすいそれではありませんけれど、腹の底からジワジワと湧き出すようなこのワクワク感が僕はとても好きですし、それは地味ではありつつも一度湧き出し始めたら二度と止まることのない、まさに「尽きることのない泉」のようなワクワク感です。
大嶋重徳『自由への指針』
さて、ボストンでの旅が半年から1年ほどを過ぎると僕もだんだんその旅に慣れてきまして、するとガイドブックには書かれていない、街のさまざまな表情に気づくようになります。路地裏にある有名ではないけれど安くておいしいレストランだとか、冬になると街路樹の枝の間からごくごく小さなダイヤモンドダストを一瞬だけ見られることがあるだとか、コインランドリーやマーケットで顔見知りのおばさんができて、なんとなく「友だち」みたいになったりだとか。「この街って、丁寧に観察してみるとこんなにも魅力的でダイナミックだったのか」と気付かされるようになってきます。一方で「この道は危ないから入ってはいけない」とか「この店は油断するとぼったくられるぞ」とか、そういった危険や落とし穴についての知恵もついてきます。旅というのはこの段階に至ってようやく「観光旅行」を脱して、真の経験になってくるのかと思います。
信仰の旅においてもこれは同じことで、いつまでも「ガイドブック」に書いてある概観やおすすめスポットばかりを見ていても、経験が深まりません。そんな段階に至った旅におすすめしたいのが大嶋重徳さんの『自由への指針』(教文館)です。これはノンクリスチャンの方にも有名なモーセの十戒について、一つひとつの戒めを丁寧に、しかもわかりやすく、しかもしかも現代的な感覚で、解説してくれる本です。これを読んだら「十戒だけでもこんなにも魅力的でダイナミックな世界が広がっているのか!」とガイドブックにはけっして記されない「街の魅力」に気づけることうけあいです。
そして一方で、この「街」で暮らす上で陥りがちな落とし穴についての警鐘も記されています。信仰の旅というのはその道を進むにつれ、様々な落とし穴があるものです。たとえば聖書のある一節だけを盲信してしまうとか、反対に耳に痛い箇所を無視してしまうとか。聖書を読み、それに基づいた生活を送るためには、実際の旅と同じように一種のバランス感覚が必要なものです。楽しい体験だけでなく、ちょっと苦い体験もあって初めて、その旅は意味あるものになります。そういったバランス感覚が、読みやすさわかりやすさと共存しているこの本は、きっと皆さんの信仰の旅を豊かにしてくれるはずです。
十戒の他にもそんな『街』の細やかな景色を味わいたいという方には林牧人さんの『主の祈り』(日本キリスト教団出版局)や、ティモシー・ケラーさんの『「放蕩」する神』(いのちのことば社)もおすすめです。主の祈りだけで、「放蕩息子」のたとえ話だけで、これほどまでに世界と生活が深まるのかと、感嘆させられます。
ブレーズ・パスカル『パンセ』
さて、ボストンの旅も2年を超えてきますと、僕はもうすっかりボストンの街に馴染んだようで、街を歩いていると観光客に道を尋ねられたりだとか、アメリカ市民権を持つ人向けの街頭アンケートに協力を求められたりだとかするようになりました。つまり僕はもはや「旅人」ではなく「現地の人」として扱われるようになったのでした。旅というのは究極的には人を「旅人」のままにはしておかず、「その土地の住民」へと変えます。旅人はその土地のルールと慣習の中で自由自在に生き、自分なりの快適な生活をそこで作り上げ、営むようになります。
信仰の旅においても、僕たちはいつまでも旅人でいるわけにはいきません。最終的にはこの「信仰」という街の住民にならなくてはなりません。とはいえ、僕もかれこれ20年以上の信仰生活を送っていますが、まだまだ完全にこの域に達したとは言えません。そんな歩みの遅い僕が日々、折に触れて生活や考え方の指針として読むのが、ブレーズ・パスカルの『パンセ』(中公文庫)です。パスカルは若くして亡くなりましたから実はもう僕の方が年上なのですけれど、信仰生活の先輩として実に様々なことを教えてくれます。「こんなに自由でいいのか」というほど自由に、「なんてスマートなんだ」と感嘆するほどスマートに、ときに「こんなに赤裸々に愚痴を吐くのか」と呆れるほど赤裸々に、しかも「え、ここでこんなこと言う!?」と吹き出してしまうほどのユーモアも交えつつ、キリスト教の信仰そのものや信仰生活をまるで写真のように切り抜き、「生きた信仰」というよりも、「あるがままの信仰生活」を見せてくれます。
「パリ症候群」という言葉があります。パリという「花の都」への憧ればかりがふくらんで、実際にパリで暮らしてみたら、イメージしていた憧れと現実との乖離にがっかりして落ち込んでしまうという現象のことです。時として信仰生活にもこれは起こります。「こんなはずじゃなかった」と思わされることが、信仰生活には多々あるものです。でもだからこそ、その旅には意味があります。旅というのは空想や理想ではないんです。自分の足で歩かねばならず、歩く以上は土で体が汚れ、自分の手で食べねばならず、食べる以上はトイレもしなければならない、そういう現実を経験することこそ旅なんです。信仰の「パリ症候群」を防ぐために、今回紹介させていただいた3冊が、皆さんの助けになれば幸いと思います。
それではまたいずれ。
MAROでした。
MARO
まろ=行政書士、上馬キリスト教会Twitter 部「中の人」