キリスト教信仰の真髄は、主イエス・キリストこそが、真の神であり、かつ、同時に、罪人の為に、人として来られた、唯一の救い主、神と人との仲保者であるという信仰告白にあります。同時に、この告白が生まれた時から、唯一の神を信じつつ、御父なる神と御子なる神との関係を問う(二神論ではない!)、三位一体論の中核となる議論も生まれました。さらには、聖霊なる神を主と告白する信仰(三神論でもない!)が、真の生ける神は、唯一の存在にして、その存在の在り方自体を「三位一体」の神として自己啓示されたのだという、「三位一体」の神への頌栄としての神学的定式化に至ります。この信仰告白の原動力には、真の救い主なる神にのみ、礼拝と賛美が帰されるべきだという救済主への頌栄がありました。この頌栄を、御父、御子、聖霊なる神に帰す信仰から、三位一体(論)が確立します。三位一体の神によって救われた喜びこそが、迫害と様々な異端との対決の中で、キリスト教会が、三位一体の神への礼拝と頌栄に導かれてきた原動力です。その意味で、古来、伝えられてきた、「祈りの法則」(「レクス・オーランディ」)が「信仰の法則」(レクス・クレデンディ)であるとの定式の所以は、まさに、三位一体論の形成過程にこそ、ふさわしく当てはまります。創造主・贖い主を知る道と人間存在の生き方を知る鍵が、「三位一体の神の存在と御業」の理解であると言っても過言ではありません。
私自身、上記のような三位一体論の形成過程の理解に至る上で、幾冊もの良書の助けをいただきました。今回は、「三位一体論」の形成過程に登場する古典と、それらを紐解く視点を紹介する書物をご紹介したいと思います。神が下さる朽ちない生命に生かされる根拠が、三位一体論の理解の内に、いかに確信に満ちて語られていたか、古代教父達の息吹に触れる道が邦訳を通して開かれていることは大きな喜びです。
1、〈古典的名著から〉
①アタナシオス、ディデュモス著「聖霊論」
三位一体論の形成過程における教理史的展開を学ぶと、必ず、登場する人物に、アタナシオス(アタナシウス)がいます。4世紀に活躍した古代教父の一人で、対アレイオス(アリウス)論争で有名になりました。アレイオスは、「御父は、御子を生んだ時に、父になった。」として、御子の被造性を語り、御父と御子の神性における本質の違いを主張した為、教会会議で異端とされた人物です。アレイオスの主張、すなわち、神性における可変性は、永遠からの神の愛による、救いの確かさを揺るがすことになります。アタナシオスは、アレイオスに対抗し、御子キリストの神性と御父の神性は、その本質と力と栄光において永遠に「同質」であることを説いた正統派です。そこに、永遠から変わることのない、御父に淵源する、御子を通しての救いと「永遠の命」の喜びが保証されると信じたからです。そして、この永遠の生命は、御父、御子と神性の力と栄光において、同等の聖霊によって信じる者に与えられます。このようなアタナシオスの三位一体の神理解を最も包括的に表現した名著として、「セラピオンへの手紙」が知られています。合わせて、彼のもとで学んだディデュモス(アレキサンドリア教理学校長)の三位一体の神理解を綴った著作が、「聖霊論」です。前者は、アタナシオスの神学全体を知る上でも非常に重要であり、後者は、4世紀に書かれた聖霊論の中で、最も優れたもの、と、双方共に、高い評価を得ています。本書では、両者の著作が一冊にまとめられ、「聖霊論」のタイトルで編集されています。
②アウグスティヌス著「三位一体論」
『三位一体論』
・アウグスティヌス:著
・中沢宣夫:訳
・東京大学出版会
・1975年刊
・四六判564頁
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三位一体論の歴史的形成過程の議論に踏み込むと、「西は一(神の本性における同質)を強調し、東は三(位格間の関係の固有性)を強調する」と言われることがあります。これは、西方教会の伝統では、お一人の神の内部に、三つの位格がある、と説明する傾向があり、東方教会の伝統では、三位格が一つの神本性を共有するお一人の神として存在する、という表現を大切にする意味になるでしょう。前者の代表格は、アウグスティヌスが有名です。主著の一つ「三位一体論」が邦訳されています。三位一体の神の超越的な存在のあり方と栄光は、何人にも語り尽くせない神秘であることを認めつつ、沈黙しないために語るという、へりくだりを前提にして、神賛美の使命を喜びの内に、生き生きと表現しています。また、三位一体の神が愛であることの内に、愛する者、愛される者、愛という三一性を見出します。そして、神のかたちに創造された人間の人格の内にも、知と愛と精神のように、区別されつつ、分かちがたい一致が存在していると、三位一体の神の御業の痕跡を見る表現が印象的です。そこでは、三位一体の神の姿に象って造られた人間のペルソナ(人格)の内にも、三一論的な愛に生きる類比と光栄があることが認められますが、神の似像の真の現れは、永遠の存在の観想においてのみであると明言されます。つまり、神のかたちに創造された人間は、三位一体の神との交わりの内にこそ、存在の喜びを見出すことが出来るのです。
2、〈古典と教理史的展開を読み解く視点を深める為に〉
①ルーカス・フィッシャー編「神の霊 キリストの霊」
中世以降、東西教会を分けた「フィリオクェ」(原意は「子からも、また」)論争の正確な理解は、唯一の公同教会を信じる立場からは、非常に重要です。三位一体の神の存在内の「聖霊の発出」を巡って、御霊は、御父からのみ発出するとするか(東方)、御霊は、御父と御子からも発出とするか(西方)、東西教会の立場は異なります。上述の「一」の強調か、「三」の重視か、の議論ともつながります。本書では、西方教会が、御父と御子の「同一本質」を強調する故に、「子からも、また」の聖霊の発出を告白する立場をとるのに対して、東方教会は、「御霊は、御父から発出し、御霊は御子からは輝き出る。あるいは、御子により、顕現する。」(ドゥミトル・スタニロアエ)等、各々の神格間の関係性を表す上で、固有の頌栄的表現を大切にしていることが明示されます。ローマ・カトリック教会、聖公会、東方教会、プロテスタント諸派の代表的論者が、歴史的分岐点の整理と教会的一致を目指す上で、どの観点が重要なのか、を論じ合う、貴重な対話集と言えます。
②Ⅴ.ロースキー著「キリスト教東方の神秘思想」
現代の東方教会の代表的神学者の一人、ロースキーにより、東方教会の三位一体論の特色が紹介されています。また、古代教会においては、三位一体の神の存在と御業の理解こそが「神学」と「敬虔」の内容であった事実を教えられます。書名の「神秘思想」は、所謂、「神秘主義」ではなく、東方の神学の伝統でいう「三位一体論」を指します。また、東方教会の救済論の特徴の一つ、人間の神化(テオーシス)の概念が神の栄光に与る道として示されます。これは、人の神格化ではなく、御子が、人間本性を統一し、聖霊が一人一人の個の人格を完成して成就する、三位一体の神の恩寵による救済の御業を意味します。三位一体の神との愛の交わりに招かれた人間の救済は、孤立した「個」としてではなく、教会共同体を通して、被造物全体におよぶ希望の内に実現することを、ギリシャ教父たちの深い洞察を引用しつつ、伝えてくれています。
終わりに
御父、御子、御霊なる生ける神への信仰と頌栄の軌跡を辿る思索の旅が、信仰の原点である、神から見出された喜びの再発見となれば、本当に幸いです。この喜びを見出した先達たちも、終末の日に、御父、御子、御霊なる神を賛美する光栄の完成に至る道の証言者として、断章を遺してくれています。それらの一つでも手に取り、彼らの思索を共有する手掛かりになれば、と願います。
坂井純人
さかい・すみと=日本キリスト改革長老教会東須磨教会牧師、日本福音主義神学会西部部会理事長、神戸神学館教師