青年への伝道は、教団教派を問わず日本のキリスト教会の喫緊の課題です。私自身は、日本基督教団の教師として、教団内の青年伝道の責任を担う経験を比較的多く与えられましたが、それでもなお青年伝道の困難と限界を感じる一人として、この課題に向き合うみなさまの一助となれるよう、筆を執らせていただきます。
最初にお断りしますと、ここでご紹介する三冊は、いわゆるノウハウ本というわけではありません。あくまで、「考えるための書物」であり、取り組んでいくのはそれぞれの教会でありみなさまご自身となります。取り組みの中で、自分自身の姿勢や、教会の姿勢も変えられていく必要があるかもしれません。しかし、こういう変化を恐れずに、取り組んでいく姿勢がなければ、どんな良著を読んでも意味がないと思います。
もう一つ大切なこととして、青年伝道の伝える内容自体を、教会の外に求める必要はないということです。ここでご紹介するいずれの書物も、これまで教会が大切にしてきた聖書や教理を伝えることを主眼としたものとばかりとなります。聖書に基づいて伝えないのであれば伝道にはならず、そもそもそれならば教会以外でなされていることの方がよほど上手で、太刀打ちできません。つまり、伝え方については自分が変えられていく柔軟さが必要ですが、伝える内容については、芯の通った姿勢が必要になると思います。
大嶋重德著『若者と生きる教会』
著者の大嶋先生は、KGK(キリスト者学生会)の主事として、常に最前線で青年と向き合って青年伝道に専心されてきました。その豊かな経験の中で、どれだけ時代が変わっても、変わらない青年時代特有の課題が三つあると語られます。それは、①「本当の自分は何か?」というアイデンティティの問題、②「愛するとは何か?」という恋愛・結婚・性の問題、③「自分はどこに進むべきか」という自分の将来の問題です。大嶋先生は、私たちに対して、そのような若者の課題に答えているだろうか、心に届く説教となっているだろうか、信仰継承を本気で実践する教会となっているだろうか、と問いかけます。
本書の特徴の一つは聖書的・教会的なことです。大嶋先生は、神戸改革派神学校で学ばれた神学的な背景があり、語られる言葉の一つ一つは聖書的根拠があります。実は、私自身が、本書をきっかけにして、属している地域の有志の若手教職たちと中高生キャンプを発足することになったのですが、大嶋先生は講師兼アドバイザーとして、プログラム作りから担ってくださり、キャンプでも力強くメッセージを語ってくださったのです。言わば本書の「実践編」を目の当たりにしたのですが、そこで何度も語られたことは、このキャンプから、それぞれ教会に戻って、教会青年として責任をもって生きるようにという派遣のメッセージでした。そして、このキャンプに参加した何名もの中高生たちが、それぞれの教会で受洗・信仰告白をしていったという、うれしい報告を受けております。
加藤常昭著『黙想と祈りの手引き』
この当時、著者であり講師であった加藤先生は、既に日本基督教団の隠退教師として七〇歳を超えていましたが、若者向けに特に奇をてらうことなく、祈りと黙想について静かに語られる神学的な講演に、私も含めて青年たちは引き込まれていったのです。年齢差は問題ではないという実例としても一読に値すると思います。本書の構成は、個人の祈りから、黙想への勧め、そして共に祈る祈りへと広がっていくもので、どの章も具体的であり実践的なものです。著者自身が、青年だけに限らず「祈りを学ぼうとする方ならどなたにも語りかけたいという思い」(あとがき)があるように、祈りを学ぶためのまさに「手引き」となります。
その中で、特筆すべきは黙想の手引きです。黙想とは、「神の言葉を聴く沈黙の行為です。沈黙の時です。黙想というのはまず何よりも黙って神の言葉を聴くことです。」具体的な方法は、本書に詳述されていますが、この時の修養会でも青年たちは、プログラムの中でこの黙想を実践いたしました。以降、この黙想は「ブーム」になり、当時私が赴任していた教会で、この修養会に参加した青年たちの集まりで聖書の黙想を行い、それぞれが黙想から与えられたことを共有したのです。私は個人的に、青年伝道の実りの一つは、聖書を語り合う「文化」が根ざしていることだと考えております。
最初の書物の著者である大嶋先生と加藤先生とは、年代も教団も違うのですが、聖書の御言葉に集中するという面では共通する点があります。更に、お二人はあるラジオ番組で対談しており、青年特有の課題というのは、時代が変わっても変わらないという点で意気投合していたのが印象的でした。
ドロシー・セイヤーズ著『ドグマこそドラマ』
本書は、キリスト者である著者の論文や講演を集めたものです。この表題が示すように、ドグマ、つまり教理というのは、ドラマティックなものであるということが伝えられています。当時の教会で、教理というと退屈な印象を抱きがちで、特に「教理的な説教」は面白くないという風潮があったのですが、それに対してはっきりと語ります。「教理を軽視しているからキリスト教は退屈なものになっているのです。キリスト教の信仰は、人間の想像力にショックをあたえる刺激的なドラマです。ドグマこそがドラマなのです。」教理が退屈なのではなく、教理を退屈にしている教会の責任を問うもので、これは、今の私たちこそ聞くべき言葉だと受け止めました。 本書の中で、特に衝撃的だったのは、「人はなぜ働くのか」という章です。著者は「金銭を得るためのやむをえない苦役としてではなく、人間の本性が適切に、かつ歓ばしく発揮されることによって神の栄光のために完成されるような、そんな生き方の一つとして仕事を見ることができないものか」と問いかけます。働くことが神の創造の姿を表すもので、神に献げる手段とさえ捉え直されており、これは「生活のために働く」という風潮に対して一石を投じるものです。しかも、驚くべきことに、このような働くことへの態度が平和につながるというのです。第二次大戦中のヨーロッパを生きられた著者ならではの言葉ですが、働くことが生活の手段と考える生き方は浪費社会につながり、その行く末は究極の浪費である戦争になるというのです。自分たちの生き方や精神的態度が、世界を変えるということは、今の時代にも通じるものであり、青年時代にこそ触れてほしい主張と思わされました。
働くということを一つの例として、著者は「日常生活を重要視していない教会に、人びとは関心を持たない」と主張しており、これは青年伝道がはかどらない一つの理由としても、私たちが耳を傾けるべき言葉と思いました。
木下喜也
きのした・よしや:日本基督教団金城教会牧師