無条件の愛に生きる〈私〉を知る喜び!
〈評者〉桑原直己
著者、柳田敏洋師はカトリック教会内の有力な修道会であるイエズス会の霊性「霊操」指導の第一人者であると共に、上座部仏教由来のヴィッパサナー瞑想を霊操に導入することにより、キリスト教霊性と仏教との統合ないしは対話の最前線に立つ人物でもある。
著者はまず、近現代哲学の方向に対して鋭利な検討を展開している哲学者永井均に依拠して、様々な記述により特定されて経験的対象世界の中で通用している私を「私」(カギ括弧の私)と表記し、眼が眼自身を見ることができないように対象化が原理的に不可能な私を〈私〉(ヤマ括弧の私)と表記して区別する。著者は、「特に科学技術に信頼を置く現代人にキリスト教理解を深めて」もらうという自らの意図を明言している。近代以降隆盛を極め現代に及んでいる経験科学は、近現代哲学の基盤の上に成立している。著者の永井への依拠は近現代哲学との対話姿勢を示している。〈私〉は、経験的な対象世界の中には無い限りで対象世界を超越していると同時に、経験的対象世界(及びこれを記述する経験科学)の成立そのものをその根底において支えている。著者は、「自由落下の法則」を例にとって自然科学的探究の根底には探究者(測定者)の〈私〉の自己同一性が前提されていることを示す。また、近年発達著しいAIと人間との差異について、「AIには〈私〉が無い」と言う形で明快に答えている。
次いで著者は、「超越の〈私〉の根拠を論理的に導き出すこと」はできないことを認めつつ、「信仰という跳躍を行い、神の存在を認め、超越の〈私〉を神から理解し、そこから現象世界の「私」を理解していく」ことにより、「より統一的、包括的に私と他者と世界を理解することが可能に」なると主張する。
その上で著者は、〈私〉と「私」との区別をトマス・アクィナスの存在論と重ねて行く。トマスは「神は自存する存在そのものであるDeus est ipsum esse per se subsistens」と神を定義する。「存在」 と訳される 「エッセesse」 は 「ある」を意味するラテン語動詞不定法現在形である。他方、エッセの現在分詞中性形である 「エンスens」 は 「存在者」「存在するもの」と訳される。エンスの領域は経験的対象世界の全体に対応する。エンスである「私」は、経験諸科学が描く自己保存本能に支配されたエゴを特徴とする人間である。他方著者は、トマス研究の泰斗山田晶に依拠して、エッセを「現実に存在する者の、その本質によって規定されたすベてのはたらきをも含蓄している」とする。エンスの世界のあらゆる存在者は、「エッセそのもの」である神のエッセの限定された分有として、その存在者の本質によって現実世界に存在する。「私」(人間)は、エンスであるにもかかわらず、超越の〈私〉という本質をもつがゆえに「エッセへの開け」をもつ。また、神は「エッセそのもの」であるがゆえに、神は無条件の愛そのもの、「アガペ」である。
本書において、概ね以上の理論的な枠組みを通して、著者が取り組むヴィッパサナー瞑想が、自己に最も身近な「身体」のレベルにおいて「私」の中に〈私〉を見てゆく実感を研ぎ澄ます営みであり、「アガペの人」となるための道であることが見通されている。













