明確な神学的確信に基づく地方伝道の実践とその結実
〈評者〉牧田吉和
本書は他に類を見ないユニークな書である。確かに、本書は副題にあるように、著者の信州南佐久における二十二年間にわたる開拓伝道の苦闘と恵みの記録が中心的に記されている。しかし、単なる開拓伝道の記録ではない。本書には、著者自身の回心の証、伝道者への召し、神学校での学び、伝道者・牧師としての生き方、日本宣教を見据えた伝道論と開拓伝道の実際、それらの道程の中で一貫して模索された神学的思考と神学思想が一体化して記されている。三百頁弱の小著ではあるが、充実の書である。
本書は求道者の方々にも読んで欲しい。冒頭の「回心」の項で、自らの求道生活について、本来伏せておきたい家庭内の悲劇的出来事さえ正直に記し、自らの求道と回心の道を書きつづっている。求道者の方々にとっては信仰の決断への勇気を与えられるのではないだろうか。信仰者にとっても、本書を通して信仰に生きるとはどういうことかを具体的に教えられるはずである。
本書は、何よりも伝道者が読むべき書である。著者は地方伝道に徹底して取り組んでいる。いわば日本伝道の根っこを見据えた伝道である。著者は神学校時代の祈祷グループ「日本福音土着化祈祷会『葦原』」について記している(五九頁以下)。この『葦原』の趣意書は特に「『農村』と称される地域への宣教のために祈りと学びを行う」ことを目的として掲げている。「『都市』中心の宣教論のみ横行する現状に対する小さなアンチテーゼ」とも記している。この志と信仰的信念に従い、著者は信州南佐久郡の小海町(当時の人口七千人)において開拓伝道を開始するのである。その伝道は困難を極める。同じように高知の西南端の地にいる評者には日本宣教を見据えた地方伝道への志も、伝道の苦労も手にとるように理解することができる。この地方伝道の働きにおいても、単なる福音宣教の情熱にとどまらず、明確な神学的確信に基づいて取り組む。「『福音を文脈化する』のは間違いであり、文脈化すべきは福音を伝える媒体である」という確信である(一三五頁)。この確信に従って、著者は「共通恩恵の器に特別恩恵である福音を載せて差し出す」ことを主張する(一三九頁)。この具体的実践は本書で豊富に披歴されている。中でも注目したいのは二十二年間継続して刊行された月刊「通信小海」とその新聞折込の働きである。人口二万五千人の南佐久郡で毎月七千部を、実に二七〇号まで刊行され続けたのである。聖書的観点からの時事問題、聖書の話、家庭問題などが扱われた。著者がその地を去る前に「『通信小海』読者の会」が開催され、実に百名を超える人たちが集まったというのである(二三一頁)。
本書は神学学徒も読むべき書である。著者は開拓伝道に伴い、神学教師の道を断念する。しかし、神学的探求を断念したわけではない。むしろ、信仰の歩みの中で、伝道と教会形成の只中で神学しつづけ、その中で神学的真理を確証して行く。著者は、本書において、自著『新・神を愛するための神学講座』(地引網出版。同書の索引も本書巻末に付録として掲載)の該当個所をその都度指示している。神学が信仰の歩み、伝道と教会形成にしっかりと根づいている。この意味で、本書は「神学とは何か」をも教えてくれる書である。お世辞抜きで読んで欲しい書である。
牧田吉和
まきた・よしかず=日本キリスト改革派宿毛教会牧師